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2011年10月27日木曜日

Susuuの日記 2011年 -274-

10月24日 月曜日 曇りで寒い日だった

午前中に僕と李教授の講演、ついで討論があった。研究所長や、省の偉い人など2-3人が来ていたが、その中の1人はかなり的を得た質問や意見をいっていて、優秀な人のようだった。


李さんの講演のとき




講演や討論が終わってから科学院のレストランで昼食、これには所長や省の偉い人などが参加したが、よく分からないが、奥さんが出かけていないので子供をつれてきたという人とか、蒋さんの隣の家の奥さんとかいう人まで参加していた




中国風生ハム?




煮ピーナッツにキュウリを添えて




蚕の蛹の煮物




揚げ豆腐と青梗菜の煮物




高いお酒だそうだが、乾杯用のグラスが小さいので助かった。お猪口で蒸留酒を飲む感じ



お茶の木に生える茸とかの煮物




シンプルなオコゲ




これも揚げ豆腐みたいなものの煮物




田鰻だという




凍み豆腐




春雨かビーフンのスープ




魚のスープ




ということで今日も豪華な食事でした。これも全部公費でまかなわれるのかと思うと、心が痛みました。

Susumuの日記 2011年 -273-

10月23日 日曜日

この日から26日までは中国に滞在していて、日記をアップロードできなかった。ご覧になろうとした方、ごめんなさい。
宿泊した中国の宿では安徽省合肥のホテルも、山西省大原のホテルもインターネットは使えた。しかし、FacebookやTwitterとGoogleのブログにはアクセスできなかった。政府がブロックをかけているのだろう。しかし、賢明な政治家の多い中国のことだから、すべてに自由にアクセスできる日も遠くないのかもしれない。
日本人と比べて、中国人の方がはるかに自分の意見をどんどんと積極的に表明し主張する。したがって、人々がある日政府に不満を持って、インターネットを使って多くの人に呼びかけ、反対運動を起こしたとしたら、中国は簡単に混乱状態に陥ることは間違いない。そこで、政治家たちがインターネットを恐れ、特定のサイトに制限をかけるのも理解できないことではない。

23日の朝の日本航空の成田からのフライトで北京に飛び、国内線に乗り換えて合肥に向かった。
合肥では安徽省農業科学院水産研究所でスッポンの養殖の研究をしている研究員の蒋業林さんに呼ばれて、研究交流会に参加した。ここでは水産といっても内陸なので淡水産の動物が対象である。


成田の搭乗口




北京空港の案内所で




合肥に着くと空港には蒋さんが甥っ子と迎えに来てくれていて、農業科学院近くのホテルに入り、少ししてから、市内の立派なレストランに連れて行ってくれた。古式ゆかしいレストランの玄関。



中には大勢はいれる立派な部屋がいくつもあったが、奥まった小さめの部屋に案内された。





なんと部屋の中には10人近い男女がいたので研究所院の人たちかと思ったら、全員、彼の姉妹やその子供だとか、親戚ばかりなのに一驚した。北京から同行した北京農業大学の利教授の話によると、ここは田舎なので公費の宴会に便乗して親族をご馳走してるのだという。しかし、皆さん素朴で無邪気で、嬉しそうで、楽しい宴会となった。





料理を選んでいる蒋さんと李教授



これはアヒルの舌の料理




豚肉の角煮、蜜を使っているらしく甘辛くて美味だった。




肉と鶉の卵と揚げ豆腐みたいなのの煮込み




クラゲの和え物、李教授の好物




桂魚の煮たもの




魚肉を軽く発酵させたものに。ソラマメを添えて。かなり美味しかった





カボチャ、紫芋、ピーナツ、栗、トウモロコシ
始めの二つは戦争中戦後の食糧難時代に嫌というほど毎日食べさせられていたので、今でも拒否感がある。トウモロコシが以外に美味しかった。




ご飯のおこげ、上には中国風ソーセージのスライスが乗せてあった




鳥と野菜のスープ



ということで、とにかく中国の食事は豪華で美味であり、毎回体重が心配になる。しかし、杯の応酬が大変。


ということで、蒋さんは一族をあげて歓迎してくださった楽しい宴会だった。今回はスライドショーは省略


2011年10月23日日曜日

Susumuの日記 2011年 -272-

10月22日 土曜日 曇りがち

朝は降っていたので走らなかった。昼間、明日の用意のため都心に出かけたときの写真。


見事な格子



東京駅近く、オアゾとかいうビルに丸善がある。そこにいったのだが、ちょうど昼時なのでそのビルの中のレストラン街に行ってみた。そのレストランの一つの壁面。一つだけ、不規則な格子があるのが心憎い。
この場所は旧国鉄の本社があったところだと記憶している。この頃は、丸善の本店よりもここのほうがよくいくようになった。丸善や紀伊国屋にはずいぶんお世話になったが、こういう書籍商は長い間
、法外な交換レートで輸入書を売って、大儲けをしているのである。



完成近い東京駅丸の内口の北口ホールの上のドームと南口ホームの上のドームの屋根


何となく、中央口のホールの上にも丸い屋根がついていたような記憶があるのだが、どうもそれは記憶違い。中央口のドームは昔の写真を見ると、丸くない。角ばった屋根である。戦災で屋根が焼け落ちたので、仮の屋根だったのが、今回の工事で元の形に復元された。



ツバメ・グリルのトマトサラダー


なんと、ツバメ・グルるまであった。名前はちょっと違って、ツバメ・何とかと書いてあったが料理はツバメ・グリルと同じだった。ここのトマトサラダは絶品。おすすめである。




旧常盤橋




江戸城の外堀の石垣を使って作ったとか何かに書いてあった。この前の地震で危険な状態になったので、今は通行禁止になっているのが残念。



          常盤小学校            




中央区には古い素敵な小学校がいくつもある。泰明小学校、京橋小学校など。ここも昭和初期の建物だろう。門の鉄の扉もなかなかいい。



三井信託銀行本店


見事な列柱、大学の先輩から三井さんという先輩の人の名をよくきいた。この三井一族なのではないかと思う。僕の学んだ学科には黒田さん、大関さん、毛利さん、など旧大名家の子孫の人たちがな人もおいでだったし、皇族の方も研究においでになっていた。そういう先輩の方々はやはりどこかが、僕みたいな下世話な人間とは違っていた。

2011年10月21日金曜日

Susumuの日記 2011年 -271-

10月21日 金曜日 曇り

今日は小谷場公園コース、日記の文章の部分を増やそうかと。


朝のコインランドリー、


コイン・ランドリーは独り者の男性のためのものかと思っていたら、けっこうオバサンなども使っているのを見かける。僕の子供の頃には、長屋の裏には共同の井戸があって、そこに長屋のオバサンたちが洗い物をしていたものだった。

子供の頃に住んでいた中延の家の裏口にも井戸があって、野菜などは屋内の水道でなく、井戸で洗っていたと思う。もちろん洗濯も。

そう、小学校にはいった最初の日のことだった。親友の広ちゃんと「ただいまー」と元気よく帰ってきたら井戸端に母や広ちゃんのお母さんがいたと記憶している。
母たち:「今日は何勉強してきたの?」
僕と広ちゃん:声をそろえて「むすんでひらいて」
母たち:「上手に出来た?」
広ちゃん:無邪気に「僕、出来た。 進ちゃんできなかったよ」
僕:無言



ヤンキー座り


この人は朝早くから外でしゃがんで携帯電話を使っていた。 

よくこうやって座っている若い人を見かける。かっては、繁華街の裏通りなどでおっかない風体のオニイサンたちがこうやって座っているのを見かけたし、競輪場のあたりなどでもこうやって座っている人たちがいた。

僕はこの座りかたが苦手である。今もやってみたが難しい。踵を上げれば楽になるが、一寸不安定。踵をつけると苦しい。僕には踵を上げて、つま先で座るほうが楽だ。

この座り方を「体育座り」というのかと思っていた。しかし、いまWikipediaで調べたら「ヤンキー座り」あるいは「うんこ座り」というと書いてあった。ヤンキーとは不良のことだそうだ。そういえば、昔はそういっていた気がする。
「体育座り」とは、お尻を地面につけて座るのをいうとあった。

しゃがんでつま先で体を支えて座るのは「蹲踞、ソンキョ」というのだそうで、土俵上の力士や野外の武士などがする座り方。

話は跳ぶが、このごろ高校生などが電車の中や廊下などで、体育すわりをしているのを見かける。老人は顔をしかめて行儀が悪いという。しかし、僕が若い頃は、都内でも舗装された部分が少なくあちこちで土がむき出しになっていた。そこで車内でも屋内でも、床が土ホコリでよごれて汚かった。そこで、体育座りなどはお尻が汚れるのでできなかった。今は電車や建物の床も奇麗なので彼らは平気で体育すわりをするのだろう。生活環境の違いが行動を変えたのだと思う。



ホトトギス


この名前も検索して調べたら「この名前は花びらにある紫色の斑紋がホトトギス(小鳥)の胸の斑紋と似ていることから付けられたとされている」とあった。

昔、我々が尊敬する小林英司先生が長期間外遊されるというので、友人数人で送別会を開いた。中野の「ほととぎす」というお料理屋さんだった。確か内藤豊君のお世話だったと思う。ほかに故安増郁夫君、故河野晴也君がいたと思う。そのときお店の中居さんが、「ほととぎす」の「ホト」とは女性の性器のことを言う古語で、この店名の本当の意味は「ホトにキスする」というのだと、卑猥な冗談をいっていたのを思い出した。

せっかく奇麗な花なのに、変なことをいってごめんなさい。安増、河野両君は故人となり、小林先生は病床にあり、内藤君もこのところ音信がない。



夏蜜柑


中学生、高校生の頃の友人に高山一成君という人がいた。後に、医師となり北九州市の小倉の病院で活躍されたと聞いている。彼とは高校1年生頃までは仲がよかった。当時の八幡市のたしか槻田とかいった郊外の住宅地にある大きな屋敷に住んでいた。
彼の家の庭には大きな夏蜜柑の樹が数本あって、遊びに行くとよくお土産に実を取ってもたせてくださった。彼には可愛い妹さんが二人いて、その1人に、僕の友人の安仲君が夢中になり、僕を誘っては高山君の家に遊びに行きたがって困った記憶がある。

僕にマージャンを教えてくれたのも高山君で、よく彼の家でジャン卓を囲んで夢中になり、それが学校にばれて、先生に注意されたことがあった。

ラグビーをやっていた次男が高校生のときに、試験の直前なのに雀荘で他の部員とマージャンをしていたのがばれて、親の僕が学校に呼び出された。息子に「うちのお父さんは中学生のときからやってた」って、学校の先生にいえといったら、家内が慌てて止めた。夏蜜柑を見ると高山君を思い出す。


貝殻坂の貝殻




小谷場にある坂を下っていたら、そばのアパートに「貝殻坂アパート」と書いてあった。そこで、坂の途中の地面を見ると貝殻が土に混じっていた。坂下の駐車場の地面にもかなりの貝殻が混じっている。国土地理院の地図を調べたら、ここの場所に貝塚と書いてあった。

ということは、このあたりまで古江戸湾が広がっていたということである。段々と開発が進んで、坂の途中の貝殻はなくなってしまい、坂下の駐車場の地面の貝殻も数が減ってしまった。




お施餓鬼の卒塔婆


小谷場の阿弥陀堂にはお地蔵様やお不動様などがある。この写真は無縁仏を集めたところのようだ。「大施餓鬼者為有縁無縁一切・・・」と書いた卒塔婆が置いてある。

母が在世のころ、毎年、わが家のお寺の世田谷の称応院のお施餓鬼に母を連れて行くのが恒例になっていた。かってはこのお寺に縁のあるお蕎麦が振舞われたのだが、ある年から普通のものに変わってしまった。昔からの蕎麦屋のご主人が亡くなって店じまいをしてしまったのだと聞いた。    

ちょっと衒学的になるが、こういった卒塔婆は菩提を弔うために塔を建てることの代わりなのだそうだ。卒塔婆という言葉の源はサンスクリット語の「ストゥーパ」なのだそうで、英語の Tower も同じ語源だそうである。






アケビの実、西中学の前にあった。


アケビとよく似たのにムベがある。花の色や形が違うのだが、どっちがどっちだったか、いつも分からなくなる。毎回、検索して確かめているのが情けない。また、メベはアケビのように紫色にはならないと何かに書いてあったように思う。左端のは紫になって、実が割れてきているのでアケビなんだろう。

また衒学的な一言、日本の古語の枕詞の「むべ」は山にかかる。「・・・むべ山風をあらしというらん」がその例である。ムベは山に生えているからだろう。アケビは何故つかわれなかったのだおるか?


今日のスライドショーはここをクリックしてください




2011年10月20日木曜日

Susumuの日記 2011年 -270-

10月20日 木曜日 曇り

かなり涼しくて、寒いくらいである。長袖にしたかったが我慢して、西川口駅逆コース。


5時25分、




南町のとッつきの家の山茶花は満開




小ぶりながら





開花を待つ





ピンクの薔薇




2色のピラカンサス




ニオイヒバの枝から枯れたヤマイモの蔓が




電車とアサガオ




見事に熟しはじめたカリン




オレンジ色のショウガの花





紅薔薇




フヨウ




ニオイヒバ、花森氏に名前を教えていただいたので、今日は葉を揉んで香りを確かめた。柑橘的な香りだった




今朝はいくらか空気が澄んでいるが





今日の写真のスライドショーはここクリックしてください