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2011年4月18日月曜日

進の日記、2011年 -107-

4月18日 月曜日 曇り

寒くも暑くもない。小谷場尾根道・遊水地コースを走る。芝中通りの桜はほぼ終わっていた。

5時17分、すでに陽が昇っていたが、厚い雲に隠れかかっていた



樋ノ爪遊歩道のサツキ



そしてハナミズキ



最初に花が咲く木




本多邸のハナモモはまだ咲いている




藤棚のフジにも花穂が伸びて、葉も出てきた




実桜はこの前まで花だったと思ったら、もう・・・・・・




田中邸のガクアジサイ、蕾が!



美しいカエデ




田園地帯で




追加

昨日の昼の散歩の時の花や実も









今日の朝の写真のスライドショーはここ



新聞の調査によると、今回の災害に対する政府の対策を批判する意見が60数%だという。テレビの論調なども、政府は後手後手に回っていると批判している。

しかし、僕にはそうは思えない。もちろん、政府が完璧だというのではないが、これだけの災害が起こったとき、誰がどれだけのことができるだろうか。批判している人は、どこをどうせよというのか、自分ならどこをどうやれたというのだろうか。

例えば、今頃になって計画的避難とかいうのは遅すぎる、なぜ最初からそうしなかったのかという批判なども当たっていないと思う。あれだけの混乱の中で、広い地域の汚染の程度を細かく調査していくのは用意ではないはずである。避難区域に当たる住民の人達が、説明に当たっている副官房長官だったかに、なぜ急にそんなことを言うのかと詰め寄っていた。生まれ育ち、今暮らしている土地を離れろと言われた人たちの気持ちも分からなくはないが、副官房長官や政府が好んで彼らに避難せよと言っているのではない、彼らの健康に問題があるから彼らのために避難するようにと言っているのである。

その地域がそれまで汚染されたのは、今の政府の人たちに直接の責任があるのではない。原発を認め推進しようとした当時の政府や産業界に責任があり、しかもそういう政府与党を支持していた日本人の多くの人達に責任があるのであると僕は考える。僕自身だって、原発の建設に強い反対意見を持っていたわけではない。地震などに対する安全対策を安易に信頼していたのである。あるいは大丈夫だろうと希望的に自分を信じさせていたのかもしれない。

他人を批判して責任を追求するのは簡単である。しかし、翻って自分がその責にあたった場合に、自分には何が出来るのかを考えるべきだと思う。自分にはこうできたはずで、それによって現在の問題が解決できたはずだというのなら、他人の責任を追求できるだろう。僕には皆が安易に他人を責めすぎるように思える。

批判をするのなら、自分ならここをこうできた筈だったということを示すべきであり、現在、何をどううすべきかを具体的に提案すべきである。

僕には菅総理には覇気が感じられないし、枝野官房長官も、一見真面目そうではあるが頼りない感じがする。他の閣僚たちも心から信頼できる立派な人たちのようには感じられない。でも、彼らを含め、大勢の日本人がそれぞれ、自分なりに一生懸命努力しているのではなかろうか。
なかんずく、東電の人たち、東電の下請企業の人たち、自衛隊の人たち、消防の人たち、ボランティアの人達、さらにはアメリカの兵隊たち、各国から駆けつけてきてくれた人たちと、皆、一生懸命、自ら働いているのである。

日本の社会は全く他人を信じられない社会ではないはずである。

では僕は何をしてるのかというと、
1) 美園会(老人会)をとおして、幾許かを被災地の救援に寄付
2) 2箇所で僅かなつり銭だったが、被災地救援募金に寄付
3) 僕の持っている知識と情報を使って、老人会の総会で、皆さんに「今回の福島原発の事故と放射能の危険性」についてお話しする。
4) インターネットを通じて、国外の友人たちに、日本の現状を直に知ってもらう
5) 今回のことを考えにいれて、将来の選挙の時の態度をどうするか熟慮して、行動する。

これくらいしかできなくて申し訳なく思っています。



















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