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2010年6月19日土曜日

さらばベッドよ (病床五尺 その35)

6月19日 土曜日 雨か

 5時40分ころ起床、この病院、最後の晩もよく眠れた。

 バロックの森は
1)バッハの無伴奏セロ組曲2番ニ単調 (セロ)アネル・ビルスマ
2)同じく「協奏曲 イ短調」 (オルガン)トン・コープマン
3)ヘンデルの合奏協奏曲 ト長調 作品6 第1 (ハープシコードと指揮トレバーぴノック 合奏イングリッシュシュコンソート)
4)フレスコバルディのトッカータ集第一巻からトッカータ第8番(チェンバロ)ピエール・アンタイ

 顔を拭き、部屋の内外を歩いてみる。快調に歩ける。薬を配っている看護婦さんのカートの上を見ると、申し送りの書いてあるノートがある。「歩いてみていますか」などと書いてある。

 外は雨。今日は「のようだ」はいらない。せっかく退院だというのに。

 ヘルパーのFさん、ゴミ捨てのオバサン(ヘルパーのMさんに似ているが名前は知らない。彼女はゴミ捨てをベッドわきの丸椅子の上に置いてくれるので捨てやすい)、などに別れの挨拶をしておく。

 室内の写真も何枚か撮っておく。今日のヘルパーはMさん、歯磨きのコップに水を入れると、埃が入らないように上に紙を1枚、かけておいてくれる人。皆さん、それぞれいい意味でのこだわりがある。

 10時ころに何時の間にやら晴れていて、外には日がさしてきた。Fさんからも、Mさんからも、向かいのベッドのYさんからも晴れてよかったですねと祝福された。

 11時15分前くらいに「こねこ」の車椅子が来る。大きな紙袋2つとパソコンと一緒に車いす固定装置の付いているバンに乗り込む。
 病院の裏口(救急車でここについてここから運び込まれた)から駐車場までの数十秒間、太陽の光を浴びる。本当に久しぶりで、皮膚の下でビタミンDの合成が一気に起こった感じ。

「こねこ」は個人経営、それも従業員は夫婦だけという最少人数の組織。ご主人は脱サラで4年前に車1台でこの仕事を始めたが、あまり忙しくはなくて、午前中だけみたいなものだという。いまも車はこれ一台で、ストレッチャーの場合は同業の友人に回すとのこと。退院がほとんどで入院はあまりないそうだ。それども、続いて協同病院に向かったようだった。

 外郭環状の西川口インターを経て、前川付近からイオンモールの前を通って、蕨陸橋に出て、帰宅した。

 家に入った一瞬、前に来たどこかという感じがした。不思議な感じだった。
 昨日の海苔巻きと稲荷ずしの残りという、簡単というかひどい昼食だったが、醤油をつけて食べた海苔巻きの味はひと際だった。





2010年6月18日金曜日

病床五尺 その34 あと1日に

6月18日 金曜日 雨

 5時過ぎに眼を覚ます。やっとここで熟睡できるようになったとっころで、退院も近い。皮肉なものである。思いついて、ホームページの目次を更新。

 バロックの森は
「ジョン・スミス卿のアルマンド」       ダウランド作曲
「やさしい森よ」               ダウランド作曲
コンセールによるクラヴサン曲集から コンセール 第1番」ラモー作曲
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラによるファンタジア」 フローベルガー作曲
「カンタータ 第78番わたしの魂であるイエスよ」バッハ作曲
                              
 向かいのベッドのYさんも今朝は一人で歩るけるように。彼も水曜日以降に退院してもよいとのことで喜んでいた。

 朝食後、最後のリハビリ、始まったところでO先生がみえる。退院後は2週目に一度診察に来て下さいとのこと。とくにリハビリのための通院は不要という。外を歩くこと、座ること、ただし座り過ぎないこと、背骨をそらす運動をすること、あまり無理して背骨を、前に曲げないこと、など。とくにリハビリは不要ということだった。
 今日もカニ歩き2往復と、足上げ運動(負荷1kgで15分)、間に待ち時間が10分入って座ってたので、腰が辛かった。

 部屋の戻ると、隣に新入りの人が入っていて、ラジオの音楽の音が流れている。様子を見に行くと30歳くらいの清潔な感じの青年、中国人研修生で、日本に3年いる予定とのこと。山東省出身。くるぶしの骨折だそうだ。しばらく話し相手になって、別れ際にラジオはイヤフォンで聴くのがルールだと言ってあげる。

K看護婦さんの測定は、血圧137と84、体温36.6度、酸素97%

 昼はうどんだといわれて、起き上がってみてみたら、丼のほかにお皿にかき揚げ風のものが! 久しぶりに脂っけのあるものを食べた感じ。食後に、排便、この5週間に下剤なしでの排便は初めてだった。心配が一つ減った。

 午後には隣の中国人のところに日本人男性の見舞い客。研修先の人か。向かいのYさんのところには娘さんと奥さん。奥さんが来たのは初めて。家族三人の和やかな会話で、まさに家族的である。

 ナースステーションに行って、Y看護婦さんと並んだ写真をとる。YさんとKさんの写真も。












  午後はMAさんからのCDを聴いたり、彼女お手製のクルミ餅を食べたり。


  

2010年6月17日木曜日

病床五尺 その33


6月17日 木曜日 晴れ

バロックの森は:
マティアス・ヴェックマンの「ソナタ 第九番」、
ヴィヴァルディーの「協奏曲ニ長調」、やたらと調子のいい曲。
ルイ・クープランの「組曲 ニ調」、二短調と二長調からなるクラブサンの組曲。
フレスコバルディーのトッカータ集から トッカータ第五番」

 朝食を食べ終わったところで昨日、MA嬢から焼海苔を頂戴したのを思い出したが、もう遅かった。相変わらず不味いおかずである。

 朝食後、ゆっくりしようとしたところに、リハビリにTさんが来る。今日も昨日と同じコースで単調だった。杖はほとんど実際的には使わずに歩いていた。握っているだけに近かった。

10時半ころに黒ふち眼鏡のI看護婦さんが検温に来る。体温が37.3度とやや高い。血圧は108と81、酸素濃度が95%。午後また体温を測ってみましょうという。

 11時ころに3階の散歩、ナースステーションのガラス戸に可愛いメジロの群れの写真が貼ってあった。ナースコールの表示板も見える。僕の名が上から4番目にあった。

 302号室の窓から外をみると、周囲の家の庭などに、カシワバアジサイ、クリ、ツツジなどの花が咲いていた。

             ナースステーション入口付近          


ナースコールの表示板




ナースステーションのガラス戸に張ってあった



カシワバアジサイの花           






 クリの花




朝食後、看護婦さんから戴いた飴




2010年6月16日水曜日

病床五尺 その32 本文

6月16日 水曜日 曇りか雨

 眼が覚めたら弾き語りフォアユーでは日本歌曲「くちなし」をやっていた。始めて聴いた曲だった。

 『くちなし』  高野喜久雄 詩  高田三郎 曲

荒れていた庭 片隅に 亡き父が植えたくちなし
年ごとに香り高く 花は増え
今年は十九の実がついた 

くちなしの木に くちなしの花が咲き 実がついた
ただ それだけのことなのに 震える震える私の心
ごらん くちなしの実を 

ごらん 熟しても口を開かぬくちなしの実だ
とある日の父の言葉 父の祈り
くちなしの実よ くちなしの実のように 待ち焦がれつつ
ひたすらに焦がれ生きよと 父は言う
今もどこかで 父は言う


バロックの森:
ワイス作曲 “組曲ニ短調”、よく合った二つのリュ-トによる26分間の最初から最後まで穏やかな優雅な曲だった。静かな雨の朝にふさわしい。
もう1曲、エマヌエル・バッハ作曲「協奏曲 変ホ長調」、出だしから古典派の曲を思わせるものがあったので、wikipediaを見たら、「父親より、父親の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継ぎ、ギャラント様式多感様式を追究して、古典派音楽の基礎を築いた」とあった。音楽に興味のある人たちには常識なのかもしれないが、僕には面白くて、最後まで注意して丁寧にきいた。

血圧は121と75、酸素95%、体温37.9度

 食後、ベッドに戻ったかと思うとすぐにTさんが来て、リハビリ、手足のマッサージ、運動と続いて、杖を持ってきたと知ると、歩行器を戻しに行って、杖で1階まで行くことに。ちょっと自信がなかったが、思ったより苦痛もなく行くことができた。
 今日も蟹の横這いを2往復、膝上げ爪先立ち20回づつ。その後に、今日は1kgの負荷をかけて、足上げを15分。
その間、平行棒の間を悲鳴を上げながら捉まり歩きをさせられているお婆さんがいた。さすがに行程の半分で椅子を入れてもらって休憩。そのまま回れ右でまた悲鳴を上げながら戻って行った。もう少し、楽な方法がないものなんだろうか。
部屋に戻るのもまた杖で歩いて行った。流石に腰が辛かったが、無事にベッドに帰りつけた。昼に座るのは無理しなくて、午後に30分、座ればいいからと、Tさんは優しい。ベッドに倒れこんで、恐る恐る腰を伸ばすと、もう何でもなくなる。

昼食のとき、同室のYさんにコーヒーを1杯、分けてあげる。本当はIさんの美味しいのをあげられればよかったのに。生ぬるくて、ミルクも砂糖も入ってないので不味いんじゃないかと思ったが、「久しぶりだから美味しいですよ」という言葉に真実味を感じた。
食後、杖をついてナースステーションに行ったりトイレに行ったりする。杖は使わなくても、あまり腰の辛さは変わらないようだった。

 Y看護婦さんから退院しても来ることがあったら3階に上がって来てよと言われる。嬉しい。

 午後、家人に続いて、TさんとIさんが見舞いに来て下さる。お二人から、携帯から携帯のメールアドレスなど交換。

 夕方、廊下に出て、通りがかりの看護婦さんにシャッターを押してもらった。部屋の名前の表示は自分で撮った。
 また、6時ころに夕立があり、さっと晴れて虹がちょっと出た。




夕食のお盆に紫陽花の花を描いたカードが載っていた。Yさんは意味が分からず不思議がっていた。あまり情緒を解さないのか、眼が悪くてはっきり見えなかったのか?

6時半ころにMA嬢がラスクと、手製のクルミ餅を持って見舞いに来て下さる。今日明日はご両親が八丈島に行っていて一人で留守番とのこと。8時半ころまで話していた。


病床五尺 その32 看護・介助について

 退院まであと丸3日を切った。

 今日は看護ということについて考えてみた。

 ここで、ほぼ1月間は身動きがほとんどできない安静中の患者だった。ただ僕の場合、意識ははっきりしていて、口も完全にきけて、看護をする人との意思疎通に不自由はなかった。しかし、同室には重症で意識があるのかないのか不明な状態であったり、意識はあっても口が自由にきけない人もいた。もっとも僕だって最初の2日くらいは、動くたびに襲ってくる痛みにばかり意識が集中して、半ば朦朧としていて食欲もない状態だったが。

 重症者の場合、輸液、ストマックチューブ、痰の除去、口内の清拭、などの看護士の行う看護と、排便排尿、体の清拭、食事の世話などヘルパー(介護士)が行っている介護とがある。これらの作業の際、意識がはっきりしない患者の場合は、かなり困難なことが多い。「向こう向かないで」「おむつに手を突っ込むと手袋しちゃいますよ」「あ、動かない、
すぐすみますからね」などと声が聞こえてくる。
 しかし、感心するのはこういった看護介護作業に、全員が忍耐づよくかつ明朗に携わっていることであった。腹を立てたりしているのを見たことがない。さらに看護士でもヘルパーのするような作業を臨機応変に手伝っていて効率的だった。

 ここの看護士とヘルパーがそれぞれが自分の仕事を的確に効率よくこなしている姿は見ていて気持ちがよかった。
 たとえばI看護婦さんは僕に下剤の座薬を入れると、あたふたと隣の部屋にほかの患者の看護をしに行った。そして下剤が効いて排便が終わると同時に、それを見てたかのように、ぱっと顔を現して「出たかな?」といった。感心して「すごーい、流石はプロ」っていったら、「まぐれですよ」と謙遜。
 看護婦のYさんは食事の際にベッドの上半分を持ち上げてくれたのだが、急に持ち上げると腰が痛む角度域がある。そこにくるとぐっと速度を落としてくれるのである。僕がどこで痛みを感じるというのが分かっている。小さなことだが、すごいことである。次善のレベルの人は、ただひたすら一様に遅い速度で動かすので時間がかかる。新米の人は元気いっぱいどんどん動かしている。「痛いからゆっくりね」と頼んで、はじめてゆっくりにしてくれる。たったベッドの上半分をハンドルを回して持ち上げるという操作ひとつとっても腕の違いがある。もちろん、経験も年齢もまちまちで20代から60代にわたる人たちがいるので、技術のレベルに違いはあるが、それぞれ自分なりに、まじめに、骨身を惜しまずに働いている。
 以上のことは看護・介助の技術的問題について述べたが、看護・介助には精神的(心理的)な問題もある。いかに適切な作業でも、それをいわゆる職業的な冷たい態度で、機械的にやられたら患者は傷つくし、悲しくなるに違いない。

 その点、ここの病院の看護婦もヘルパーも皆明るくて、親切で気持ちがいいのには驚かされた。ずいぶん、汚い仕事や、面倒くさい仕事があるのに、朗らかに、元気にこなしていくのである。しかも夜勤のときは人数も減っているのに、ナースコールににこやかに答えてくれる。この点は驚くほどである。腹を立てたり、乱暴な言葉を投げつけたりしているのを見たことも聞いたこともなかった。

 お見舞いに来ていた向かいのベッドの人の娘さんが、「私が入院してたところと違って、ここの人たちは親切なのねー、驚いたわ、患者が男だからかな?」 と面白いことを言っていた。それもいくらかはあるかもしれないが、基本的にそういった問題ではないと思う。明るくて親切なのはここの病院の人たちの気風とでもいうものだろう。

 ある年配の看護婦さんは僕のために、僕の手が届かないところにある、電燈のスイッチを押す棒を、針金のハンガーと包帯でわざわざ作ってきて下さった。この棒は僕の宝物である。

 要するに看護には肉体的な面と、精神的な面がある。前者は患者の肉体を快方に向けるべく、また出来るだけ苦痛がなく快適であるように適切な処置をしてくれることである。後者はともすれば病苦や自由を奪われたことからくる、落ち込みやすい精神状態を少しでも明るく、楽にすることである。
ここの病院は看護婦もヘルパーも(ここでは全員女性)明るい朗らかな人が多くて、常に笑いと頬笑みが絶えない。患者とも仕事上以外の気軽な会話が頻繁にかわされている。患者と看護・介護に当たる人との関係が職業だけでなく、適度に人間的な関係もここには存在している。6月12日に退院していった児島老人などの場合はその見事な例であろう。
 
 ところで、子規の「病床六尺」の中に病人の介抱ということについて書いた章がある。根岸の家で彼の介抱にあたっていたのは、故郷の松山から出てきた母親と妹の二人だった。 彼はこの二人の手厚い肉体的な介抱については特に取り上げて感謝してはいないが、具体的な事実の記述から、それが実に立派なものであったことは容易にうかがい知れるし、彼がそれにいかに頼っていたかも明らかである。

 しかし、子規は彼女らの介抱に飽き足りないものを感じていたのである。子規は介抱の中に知的な会話こそが必要だと感じていた。そして、それが出来ないのは彼女らに教育がなかったことによると断じていて、女子教育の必要性について述べている。もっともこのように述べると、病人の介抱のために女子教育が必要というような風に取れてしまうが、彼はこの介抱ということを通して、一般的に女子教育が必要だと述べているのだと思う。ここでいう、介抱とは今でいう介助のことと言ってよいだろう。

 子規は、さらに見舞いに来る弟子たちについても面白いことをいっている。弟子の中でも一番いい見舞客は鼠骨(寒川鼠骨)だというのである。その理由は、彼は話題が豊富で、かつ聴き上手でもあって、人をそらさないうえに、ユーモアにも富んでいるのがいいという意味のことを書いている。僕の弟子にはそれに該当しそうな人はいないが、元の同僚の石垣春夫氏がもっともそれに近いといえよう。

   小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん  子規

 という句にもあるように、子規が一番信頼し愛していた弟子は虚子であることはつとに有名である。このことは病床六尺の文章の中でも察っせられる。
彼は死期の近いのを感じたとき、返す当てがないことを知りながら虚子から二十円を借りて、その一部で、自分の誕生日に有名な料亭から3人前の豪華なお膳を取り寄せて、母と妹の3人で食事を楽しんだのである。彼はその次の誕生日を迎えることなく世を去った。

   をととひのへちまの水も取らざりき 子規


 では子規の見方で言うと、ここの病院の介助にあたっている女性たちはどうであろうか。おそらく全員、高等学校以上の教育は受けているに違いない。しかし、子規が要求していると思われる知的な会話まで要求するのは無理としても、冗談を交わしたり、テレビや新聞の話題に触れたり、ときには子供との関係について話したりと、話題は結構豊富であった。しかも、冗談が好きで、快活で楽しい雰囲気を撒き散らしている。精神的な介抱ということでも、かなりの高点がつけられると思う。

 ただ、子規の場合、家族という点で、少し考慮すべきだったろう。家族内だと、案外、話題が乏しくなるのが普通なのではないだろうか。

 老人施設などの良否の判断には、介護の身体的な面と、精神的な面の二つから見ることが必要であろう。


2010年6月15日火曜日

病床五尺 その31

6月15日 火曜日 晴れ

 6時におしぼりが来て、髭を剃って顔を拭いて、FMのスイッチを入れると、「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ハ短調」 ヨハン・セバスチアン・バッハ作曲が聞こえてきた。小石川の教会で出会ったオーボエ奏者、及川寛繁さんのことを思い出す。今年も7月にみなとみらい小ホールでで横浜バロックアンサンブルと共演するようだ。聴きに行ってあげたい。

 今日はお風呂の日でY看護婦さんが7時過ぎから出勤してきた。検温に今日はいつもの赤ちゃん用のとは違う大きいわきに挟むのを持ってきた。電池が切れたそうで、自腹で買っているとのこと。今日のは測定が終わるとかなり大きな音でかわいいメロディー、メリーさんの羊が鳴る。これも子供用とのこと。彼女のこだわりだろう。共感できる。36.7度だった。酸素は低めで96%。
 朝の薬、ディオバン、アムロヂン、ミオナールを看護婦SHさんが持ってきた。ちょっと色黒な顔の頬笑みが魅力的。

 食事は車椅子で。食べ終わってトイレに行ったりしたら、腰がかなり辛くなった。ベッドに戻ったら、すぐにリハビリ。
腰を心配しながらだったが、案外に平気だった。今日のリハビリは歩行器で1階の部屋まで歩いて行って、カニ歩き2往復、膝上げとつま先立ち20回づつ、さらに機械に座って負荷をかけた足上げを15分間もやった。
ベッドに戻ったら、今度もすぐに入浴。車椅子で行って、バーにつかまって立ったまま洗ってもらう。ヘルパーのIさんと楽しく話をしながら。これも立っているには全くつらくなかったから不思議。

入浴後に血圧測定、121に74だった。

 午後、Mさんご夫婦とAさんが見舞いに来て下さった。今日は1時間以上、いてくださった。Aさんのところは光ファイバーにしようとしたら、電話にインターフォーンを繋いでるのをはずさなきゃダメということで、目下、パソコンがインタネットを使えない状態なんだという。

 夕食後、O先生がみえて、レントゲンはまあ問題はないとのこと。第二腰椎が少し、つぶれているがまあ問題ないでしょうという。また歩かせられて、膝ががくがくしますかと訊かれ、しないと答える。それじゃ、退院していいですとのことで、土曜の朝退院との指示を出してくれるとおっしゃった。

 不思議なのは、座ってると腰が辛いのに、歩くときはそれほど苦痛でないことである。


 バロックの森は

「夜明けに微笑むあの花は」 ヘンデ作曲 ダブルハープとアーチリュートのデュオ。ヴィラ・ダ・ガンバの伴奏が入る。ダブルハープというのを調べてみた。半音の弦がもう一列張ってある、弦がダブルになっているハープで、バロック時代のハープ。アーチリュートはこれもバロック時代のもので、大型のリュートである。おもにアンサンブルに使われたと分かった。
最後は「カンタータ 82番 “我は満ち足れり”」 バッハ作曲 バス(ペーター・コーイ)。ちょっと歌ってみたくなった。




2010年6月14日月曜日

病床五尺 自殺


 子規の仰臥漫録のなかの、没前約11ヶ月の1901年10月13日の日記に、肉体的、精神的の苦悩のあまり自殺を試みかけたときの記述があった。
 午後2時ころ、妹の律(離婚して家に戻っていた)が風呂に行って、母親だけがだまって枕元に座っていた。彼は急に頭が混乱状態になって、「さあたまらん、たまらん」「どうしようどうしよう」と叫び始める。母親は「どうしようもないよ」といって黙って座っているだけであった。彼は苦しさを紛らわせるために誰かに電話しようと思うが電話するあてもないので、弟子に「すぐこいねぎし」と電報を打つことを思い付く。 そこで母親を電報を打ちに外出させ、そのすきに枕元にあった小刀か千枚通しで自ら心臓を刺して自殺しようと思う。しかし、痛いだろうか、死ねるだろうか、死にそこなうと今より苦しむのではなかろうか、などと煩悶しているうちに母親が帰ってきてしまい、実行にはいたらなかったというようなことが書いてあった。
 そのときの小刀と千枚通しのスケッチが図版になっていた。かれは重症の肺結核にかかっていて、痛みをモルヒネで押さえている状況だった。モルヒネで苦痛が治まると、寝たまま筆で執筆したり、絵を描いたりしていたという。

 僕の場合は、徐々にではあるが痛みも減って、回復に向かっているのが分かっているので、遠からず、退院できると思われる。さらにこの病院で看護にあたっている人たちは明朗快活で、かつ親切である。それなので、何も悩むことはなく、毎日を明るく感謝に満ちて暮らせている。しかし、心の奥底のどこかに、もしも治らなかったり、もっと長期になったりしたらという不安が潜んでいる。それで子規のこの文に惹かれたのかと思う。


病床五尺 その30


6月13日 日曜日 曇りか雨


 5時半に目が覚めて、6時ころに夜勤の看護婦SNさんについてて貰って、昨日と同じだけ歩く。 後で、もう少し歩いてみればよかったと後悔する。午後にでももっと長い距離を歩いてみよう。

 バロックの森は最後の曲しか聴けなかった。
新しいコンセールから コンセール 第8番劇場風の合奏曲」フランソア・クープラン作曲 (演奏)レ・タラン・リリク  (クラヴサン、指揮)クリストフ・ルセ

 朝食は車椅子でしたが、朝歩いたせいか腰が辛かった。15分か20分でベッドに戻る。1時間ほど休んでから、初めて一人で車椅子でトイレに行った。

 血圧をI看護婦さんが測ってくれる。Iさんは45歳という。血圧は126と68。

 午後にはI看護婦さんについていて戴いて、トイレのあたりまで往復。ゆっくりした足どりだが楽にできた。


 それに力を得て、夕方、思い切って一人で歩いてトイレに行った。退院準備進行中。


 今日も美味しいコーヒーを戴く。今日のブレンド名は写真を見てください。