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2012年2月4日土曜日

Susumu の日記 2012年 -035-

2月4日 土曜日 快晴 立春

風がないので助かったが立春の文字とは縁の遠い寒さである。長徳寺・貝殻坂コース。

このところ、急に走っている人が増えたようだ。マラソンのシーズンで刺激されたのが原因か?
ここ数日は、耳が冷たい。


6時1分 快晴




長徳寺の大欅




寺の庭にはまだ雪が残って





産業道路のお地蔵様




産業道路の地蔵堂脇の斜面で雪に打たれた水仙





小谷場坂で日が昇った





貝殻坂下にはまだ貝塚の貝が




ハクセキレイか、ハクセキレイとセグロセキレイの違いは分かるのだがどっちがどっちだったかは、すぐ分からなくなる。こういうのは、両方を覚えようとするからいけないのだと、タクシーの運転手さんから教えられたことがある。

僕:「池袋駅までお願いします」 運転手:「池袋駅の西口ですか、それとも東口ですか」  僕:「えーーと、あれどっちかな、そうだ、東部デパートじゃなくて西部デパートのあるほうの口です。何時もどっちがどっちか分からなくなるんですよね」 運転手:「お客さんね、そういうの両方覚えようとするからわからなくなるんですよ、西部のあるほうが東口とだけ覚えてきゃいいんです」



田園地帯の梅林には、早咲きの木が2-3本あり、もうちらほら咲き出した。




西中学近くの家のサボテン




陸橋からの富士山




根競べ水仙





昨日は節分だった。小谷場の石仏坂上の家の入り口の金属の柵に、真新しい柊の小枝と豆柄がつけてあった。鰯の頭はなかった。




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2012年2月3日金曜日

Susumu の日記 2012年 -034-

2月3日 金曜日 快晴

今朝はこの冬一番の寒さといっていたが、風がなかったのでいくらか楽だった。昨日、一昨日とかなり寒かったので、昨日は耳あてか顔を覆うものを買おうと思っていたが忘れた。幸い、風がなかったので、耳がそれほど冷たくはならなかった。西川口駅コース。



5時58分 快晴




西川口方向を見る




南町の外れのクコの実




三和稲荷近くの家の針葉樹、何だろうか




赤が濃い馬酔木の蕾




南町でも蝋梅が満開




ローズヒップ




中庭の強情水仙に朝日が当たりだした




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2012年2月2日木曜日

Susumu の日記 2012年 -033-

2月2日 木曜日 晴れ

目覚ましをかけ忘れたら、寝坊してしまった。昨夜の天気予報で今朝は特に寒いということで、弱気になっていたのが無意識に作用したのかもしれない。
かわりに午前中にイオンモールまで速足で歩いて、本屋に入り文春文庫のスティーブ・キングの作品を買う。このごろの文庫本には上下2冊になったのや、稀には上中下の3冊になったのまである。今回買ったのも上下の2冊からなる(2巻といいたいところだが文庫本に巻とは大げさなので)。 こうなると、一つの小説が2千円以上になって文庫本といっても安いとはいえない。

モールの中の電気店を覗くとNikonの新しいディジタル一眼カメラの Nikon 1 の J1と V1 というのが置いてあった。軽いし小さいし、色々な機能が使いやすくなっているようだ。レンズも値段は高いが35mm相当で27mmから270mmまでのズームもある。マウントアダプターを使えば今もっているFマウントのレンズも使えるのである。
撮像素子はCMOSではあるが、サイズが13.2x8.8mmと小さい。APS-Cの三分の一、フォーサーズの半分くらい。それでも今使っているリコーのコンデジCX-3の3倍くらいはある。

もっとも、いま、わが家の目の前の書棚の中にごろごろ横たわっているいくつものデジカメを見ると買うのは躊躇される。それに Nikon は古いのも入れてコンパクトデジカメが2台、ディジタル一眼が3台もあるので、気が引ける。

ということで、やはり買うのはばらく考えてからということにしよう。



中庭の水仙、意地比べはまだまだ続きそうである




樋ノ爪遊歩道のハナミズキの蕾はまだまだ固い





イオンモールに向かう途中で見つけた黄水仙(キズイセン)


ふつう、青い(あおい)、赤い(あかい) というが 黄い(きいい?)とはいわない。黄色い(きいろい)という。「青・赤・黄」と並べたときは「あお・あか・きい(き?)」というように思うが。何故だろうかと考えた。
ほかの色にかかわる形容詞で「い」で終わるのがないか思い出そうとしてみた。黒い、白い というのはあるが、紫い、緑い、紺い、茶い などというのはない。さらに「黄色い」「茶色い」とはいうが「紫色い」「緑色い」などとはいわないし、「黒色い」「赤色い」などともいわない。色に関係するのにはほかに「濃い」「薄い」というのがあるが、「濃い色い」「薄い色い」ともいわない。ということで、何がなんだか分からなくなってきた。
整理すると、色の中で赤、青、白、黒 は「い」がつくが、ほかの色はつかない。黄と茶だけは「黄色い」「茶色い」というように色の後に「い」をつけるがほかの色にはつけない ということである。

このきっかけは、実はテレビの気象情報(この頃は天気予報とは言わないのかも)である気象情報
士が色の濃淡を言うのに、「コイイ」といういい方をしていたことにある。

僕の両親は東京出身の人間なのだが「濃い」というのを「コイ」と読むが、僕が小学校半ばからほぼ9年間暮らした北九州では「コイイ」というように思う。多分、西日本では「濃い」は「コイ」でなく「コイイ」というのではないかと思う。そこで「濃」が「コ」であるか「コイ」であるかによって、上記の「コイ」と「コイイ」の違いが出来たのではないかと考えた。そこで、「黄」も「キ」か「キイ」かという違いがあるのではないかと思い、始めに述べたことに入っていったのである。

さらにここでもう一つ気がついた。西日本では「黄色い(キイロイ)」というのを「黄?ない(キナイ)」というのではなかったかということである。そうすれば「アカイ」「アオイ」「シロイ」「クロイ」「キナイ」となって、この言い方に色が一つ増えることになる。

この問題はよく整理して、誰か日本語に詳しい人に聞いてみなくてはと思った。



紅梅の蕾も咲きそうになっていた、芝で




まだ咲き残っていた十月桜




昼休みの小学校校庭、子供の顔が見えない写真を選んだ




木瓜の花




黄色い花の薔薇、いや、きない花の薔薇 





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2012年2月1日水曜日

Susumu の日記 2012年 -032-

2月1日 水曜日 晴れ

今朝も寒いことは寒いが昨日ほどではない。今朝も目覚ましで眼が覚めたが、目覚ましの必要がない日もある。いずれにしても、朝起きるのは決して楽でない。颯爽と元気よく起きる朝もないわけではないがたいていはいやいや起きる。

いやいや起きているのに、何故25年近くもジョッギングが続いているかについては工夫がある。

まず冬が問題で、寒いのは起きる勇気を阻害する。そこで、朝起きるころには部屋がヒーターで暖まっているようにしてある。これだと起きるときの抵抗が少ない。これは半世紀以上前にニューヨークで暮らしたときに体験したことなのである。当時の日本は貧しくて、暖房などは極めて惨めなものであった。ニューヨークはマンハッタンのアパートに住んでいた。セントラルヒーティングで朝は5時頃からスチームが入りだし、起きる頃には部屋は暖まっている。そうなると、冬でも朝起きるのが苦でないのである。東京と違って、冬の朝も楽にベッドから出られて、何の抵抗もないのにびっくりした。
この経験から、朝起きるときに部屋を暖めておく戦術を取って、起きるのを、そしてジョッギングを楽にしているのである。

それでは夏や春秋はどうかというと、眠さという問題がある。眠いのを我慢して起きなければならない。これには早寝という方法と、昼寝をしておくという方法しかない。定年後のこの10年間くらいは、必要とあればたいていいつでも昼寝が出来るので具合がいい。もっとも定年前にも講演など聞いているときや会議のときなどによく居眠りをしていた。実は授業中に講義をしながら一瞬、居眠りの状態に入って、教壇から転落しそうになったことがある。高校生のときに、国語の先生でご高齢だった宮原先生という方が、「僕は授業しながら眠るんですよ、ほんの一瞬ですけどね」とおっしゃったのを記憶していた。若いときにはまさかと思っていたのだが、このときに成程このことだったかと、改めて先生のおっしゃっていたことが理解できたのである。

眠たくておきたくないときには、一寸考えるのである。ジョッギングを始めるのは大変だが、やめるのは簡単である。今朝起きないと、明日もあさっても起きられなくなるに違いない。しかし、やめると僕はまたデブで高血圧の老人に逆戻りする。それを思うと、ここで我慢して起きて走る方がずっと楽なんだと思い直すのである。

起きる前にもう一つ気になることがある。ことに冬場にある。それは外に出ると寒いのではないかということである。しかし、この問題は外に出る前に十分準備運動をしておくことで解決した。ことに、腰痛を病んでから腰痛の特効薬のマッケンジー体操をするようになった。これが準備運動の一部となり一挙両得となった。ついでに、膝通対策のスクワットもしているのである。この2種の運動で、老人の2大苦痛の腰痛と膝通が完全になくなったのだが、このことについてはまたの機会にゆずる。

最後に、毎日毎日走るのに飽きはしないかという問題がある。これにはまず、走るコースを変えるという方法(3方向の各方向に3コース、合計9種類のコースを持っている)をとっている。しかもコースによって桜並木があったり、梅林があったり、色々な果物gなっていたり、色々な花が咲いていたりする。さらにいえば、美人の女性ランナーに出会えるコースがあればいいのだが、残念ながらそういうコースはない。かって国外ではあったのだが。

ということで、今朝は六辻水辺公園遊歩道に線路沿いから入るコースを取った。



6時5分




鳥海邸のミツマタの蕾




辻小橋近くの蝋梅、枯葉はすっかり落ちて、花と蕾だけとなった




朝の犬の運動、高校生は珍しい




水辺公園の用水は凍っていた




蕾の先端が白くなっている梅、辻で




中庭の水仙、蕾の先端が割れてきているがまだ咲かない




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2012年1月31日火曜日

Susumu の日記 2012年 -031-

1月31日 火曜日 快晴

今日で1月は終わり。例年になく寒い冬で、ここ四半世紀ではじめてセーターを着こんで走った。我慢すればセーターなしでもいいのだが、年のせいか、無理することもないかと思うようになった。気が弱くなったともいえるが。

年といえば、この3月に満80歳になる。まさか自分が80歳まで生きるとは思っていなかった。最近までずっと交流があったり、あるいは今でも交流のあるかっての同級生たちをみると、小学生のときの同級生だった清水廣泰さんも、中学・高校の時の同級生の山本繁さん吉田智昭さんも、大学での同級生の花栗茂郎さんもお元気である。ただ、親しかった安増郁夫さんと河野晴也さんが亡くなったのは残念であるが、亡くなった方より生きている方のほうが多い。さらには3歳年上の次兄も、6歳年上の長兄も元気なのである。日本人は男性も長生きになったののだと実感する。



6時1分 今日も快晴で寒い




芝西4丁目のある家の梅が、ちらほらと咲き始めていた




塚原2丁目の藁屋根の門のある豪邸の梅は蕾の先が白くなっていた





小谷場の阿弥陀堂の境内の梅も蕾の先が開きかかっていて
雌蕊の先端が覗けるのが一つだけあった




田園地帯の大木の梅は咲くのはまだが、たくさんの蕾が膨らみかかっていた




陸橋から見た富士山、今日がこの冬で一番はっきりとよく見えた。

日暮里富士見坂の富士山の頂に太陽が沈むのが見えるのは、一昨日、昨日、それに今日の3日だそうだが、昨日は雲がかかっていて見えない様子をテレビで放映していた。一昨日は見えたというが、今日はどうだろうか。丁度、富士山の見える位置に今年中にマンションが出来て、富士山が見えなくなり、都内唯一だった富士山の見える富士見坂は消えてなくなるのだとのこと。




2号棟下の梅はまだ蕾、しかし膨らみ始めていた



中庭の水仙ももう一息というところか



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2012年1月30日月曜日

Susumu の日記 2012年 -030-

1月30日 月曜日 晴れ

毎朝、今朝が今年で一番寒いと思う。昨日の夕方、出先から帰宅する途中はこれまでにないくらい寒かった。同行の方々と、寒い寒いといいながら帰った。

個人えい業のお店が段々と減っている中で、頑張っているお店に豆腐屋がある。個人営業の店といっても豆腐屋は販売だけでなくたいていが製造も行っている。それもご主人一人が製造をやっている店が多い。ほかに製造販売を共にやる個人商店としてはお和菓子屋とケーキ屋くらいしか思いつかない。

まだ現役時代に、駅から歩く途中、裏道を通るとまだ若い夫婦でやっている豆腐屋があった。毎朝、二人で一生懸命働いている姿が印象的で、前を通るたびに眺めては、いいなと思っていた。ところが、退職するかなり前にその場所の古い家がすべてなくなってビルになってしまった。同時に、豆腐屋も姿を消した。あの二人はどうなったのだろうと今でも気にかかる。

その頃、勤め先の近くにケーキ屋さんがあった。店の裏が小さなケーキ工場で、店にはオバアサンと娘さんか息子のお嫁さんらしい中年のおばさんが働いていた。夏など、アイスクリームをよく買いにいったりしたので、お二人とも顔なじみだった。オバアサンは何か買うと、必ずおまけにクッキーか何かを入れてくれるのだった。若い人が僕の誕生日にといって、ケーキを買いに行ったら、おばさんがいつもお世話になるからとHappy Birthday と文字飾りのついた大きなケーキを作って無料にしてくださったこともあって感激した。
ところがある日突然、お店のシャッターが下りていて、裁判所の強制執行でお店が土地と共に取り上げられたとの張り紙があった。近くの方の話だと、そこのお祖父さんは以前も小豆相場で失敗して大きな借金を作って大変だったこともあったので、またそういうことじゃないかとのことだった。噂では夜逃げ同然に引っ越していかれてとのことで、その後、どこか下町の方でお見かけしたという話も聞いた。きっとお二人とも辛かったろうと思うと、悲しかった。

このあたりには、まだ何軒か個人経営のお豆腐屋さんがある。去年から今年にかけて一軒が閉店となったほかは、どこも頑張っているようである。朝、走っているときに灯りがついている店は24時間営業のコンビに以外は豆腐屋だけである。
近くには自家製造のケーキ屋さんも1軒ある。ケーキの場合はこの頃は自家製造ではなくてホームメイドというようだ。豆腐の場合はホームメイドとは言わないようだが。このケーキ屋さんは初老のご夫婦と息子さんでやっている。古くから住んでいる人によると、この土地で最初にできたホームメードの洋菓子を売るお店だそうである。このお店にバイトの店員をしている近くのお嬢さんがいた。彼女は大学から大学院に進学してもここでバイトをしていたが、学位を取り、やがてある大学の専任講師として就職し、お店から姿を消した。この厳しい時代に、立派な職につけてよかったなと思う。



蕨中央の豆腐屋




鬼沢橋ちかくでいつも6時半から体操をしているお年寄りたち
右端の人がリーダーらしい。画面の外にもう2人おいでだった。




花梨通りの花梨の芽




せせらぎ公園脇の梅の木の枝




浄水場通りの蝋梅




中庭の水仙、咲かないでしおれそうな感じまでする




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