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2010年6月12日土曜日

病床五尺 その29


6月12日 土曜日 晴れ

バロックの森は
 - ルイ14世の少年時代のフランス・バロック音楽 -(6)                              
パトディア・サクラから」 コンスタンテイン・ホイヘンス作曲
  ・あなたがみ顔を隠されると ・主よ、わたしが迷うとき ・ウィルソン
  ・喜ばしきかなから」アンリ・デュモン作曲 ・サンフォニー     
  ・アルマンド ・天使と罪人の対話 
「オルガン曲集から 抜粋」ギヨーム・ガブリエル・ニヴェール作曲
ポール・ロワイヤルのためのミサ曲から キリエ」マルカントアーヌ・シャルパンティエ作曲
「第5旋法の組曲」          ニコラ・ル・ベーグ作曲

 最初の曲の作曲家は物理学者のクリスティン・ホイヘンスの父親だという。最後の曲は木霊のような短いメロディーの強弱の繰り返しが続いて、面白かった。

 新入りのFさんのところに看護婦のSHさんが来ていた。Kさんが退院した時に、盛んにSHさんに会いたがっていたことを思い出し、伝えてあげる。彼女は昨日は夕方からの勤務でいなかったのだそうだ。よくして戴いてたのにと、会いたかったと残念がっていた。
 Kさんの自作の自叙伝を貰って、そんなの自分みたいのが読ませて貰っていいだろうかと思ったとのこと。生い立ちからのことが書いてあったとのこと。彼女も2度も「また会うことがあるかなー」と。思い思われる97歳の老人と20代後半の女性との二人のお話でした。

血圧125と82 体温36.9度 97%

 昼食はヘルパーのHさんに頼んで、車椅子でしたが、腰が疲れた。午後2時ころに一人で立ったり、足踏みをしたりして、ベッドに戻り横たわったところで、O先生が突如現れて歩いてみて下さいという。ふらふらと、部屋を出て廊下を横切り、また戻った。先生がそばについていたのだが、無事に初歩行を終えた。来週末、退院ですと確認してくれた。先生は登山用の靴だったので、どこかに行くんですかと訊いたら、1泊で丹沢の大山に行くとのこと。嬉しそうに出て行った。
 看護婦長さんがある患者さんの口腔を拭っているのを立って眺める。実に丁寧なのに感心する。痰を取るのは鼻からチューブを入れていて吸引、患者は苦しそうだったが終わった後は気持ちよさそうだった。

 夜勤の看護婦さんはSNさん。

夜勤のヘルパーKRさんに案内されて、車椅子で初めて、トイレに行った。割と楽に往復できた。




2010年6月11日金曜日

病床五尺 その28

6月11日 金曜日 

 5時半に眼が覚める。6時に熱いおしぼり。髭を剃ってから顔を拭く。 
 今日で入院してちょうど4週間。 

 髭を剃りながら思いだした。僕が毎朝、おきるとすぐに髭を剃る習慣について。 

 高校2年の秋に僕は初めて家を離れて暮らすことになった。出発の日の朝のことだった。父がやってきて「進、おまえこのごろ無精ひげが目立つのでみっともないから、毎朝これで髭を剃れ、それが身だしなみだぞ」といって、ジレットの安全カミソリを呉れた。なんとなく、元服して短刀を貰ったような気がした。 
 以来、僕は毎朝、洗顔とともに欠かさず髭を剃るようになった。僕は手や足にはほとんど目立つような毛がないが、髭は日本人としては濃いほうで、若い時には、朝髭を剃っても夕方には頬に影がある感じになっていた。 

 40歳ころのことだった。アメリカの小さな町の大学で国際会議があった。夏休みだったので遠方からの参加者は大学の寮に泊まった。2日目の朝だった。ある参加者が僕に電話で、ドイツの有名な学者がなくなったことを知らせてくれた。そこで、僕はかってのボスで学会の創立者でもあるワシントン大学のG教授にこの凶報を知らせようと思った。彼は僕の部屋の近くの部屋にいることは知っていたので、すぐに行って、ドアをノックして声をかけた。 

 ノックにこたえて、G教授は扉を開いて僕の顔を見るなり、Oh, Susumu. Please excuse me my unshaved face! (髭面さらしてごめんなさい)とおっしゃった。僕は思わず自分の頬に手が行ったが、幸い習慣的に髭は剃っていたので、ほっとした。 
 このとき、欧米の習慣では無精ひげは無作法なんだと初めて知ると共に、亡き父に感謝したものである。 

 以来、気をつけてみていると、彼らは朝髭を剃るだけでなく、夜にパーティ-などがあると、いったん部屋(あるいは家)に戻って、着替えると共に髭も剃ってきている。 

 日本でも江戸時代には月代(さかやき)は奇麗に剃っておくのが身だしなみだったようだ。 


 9時ころにリハビリ、今日は平行棒で両手で捕まって往復2回、手放しで短時間なら立てる。片手だけで捕まって往復2回、さらに蟹歩き往復2回をした。さすがに終わってから車椅子に座るのは20分でダウン。

血圧は118と72 体温36.8度

 同室のKさんは退院、有料老人施設「そよかぜ」に行くそうだが、昨日はヘルパーが二人お別れに来たりしていた。11時ころに、「そよかぜ」の人が車椅子で迎えに来て、K看護婦さんさん、N看護婦さんに送られて、我々に手を振りながら去って行った。誰もいないときに、お顔を見せて、「本当はここがいいんだけど、娘のところに近いから移ります」とおっしゃっていた。


 さて、今日の朗報、歩行練習のとき、手を離して立てたこと。またO先生から来週末には退院できそうだと言われたこと。 

病床五尺 その27 補遺 「ワープロ専用機とパソコン」

6月10日の日記について高村さんからメールをいただき、それに返事を差し上げました。
その一部を下に書きました。


 昨夜、高村さんから戴いたメールの一部と、僕の返事。
 
ところで、先生の本日メールで、ワープロのことが書かれていましたが、大変懐かしく読みました。小生も現役の頃、東芝のワープロ専用機を会社で使用していました。
当時は、データ処理ではなく文書作成業務が多かったからです。
パソコンについては、それ以前から中央研究所勤務時代に米国コモドール社(現在は無くなっていますが)のホビータイプのパソコンを使い始めていました。これは、研究所で
これからのパソコン普及を想定して予備勉強の方針で、各部署に支給されました。もちろん、パソコンとは言いながらも、機能は現在とは月とスッポンですが、只、通信機能が付いていたことは驚きでした。その後、日本でもNEC社からPC7000PC8100,PC9800と急速な進歩で、当時パソコンと言えば、NEC社の9800が日本をリードしていました・・・・・と先生のメールから懐かしく思い出しました。結論は、先生のメール通りパソコンの方が
先で、ワープロは専用機として一時、大変普及しました。
小生、管理組合の理事長時代に管理組合の業務に初めて、ワープロ専用機を導入したこと
を思い出しました。この時代の業務ファイルには、ワープロ作成の資料があります。
なぜ、ワープロ専用機なのか?それは、当時のパソコンよりは数段に文書作成機能が優れていたからでした。ワープロ専用機ですから当然ですが・・・・・
                             =高村=

高村さん

 竹内さんからトラブルについてちょっとお話を伺ってはいて、心配していたのですが、
事情が分かってほっとしました。データは助かって、不幸中の幸いでしたね。

 ハードディスクは壊れるものと、覚悟しておいた方がいいです。竹内さんはこまめに
バックアップをとっておいでのようですね。感心します。

 フリーソフト、小生の持っているものでしたrら、退院次第、差し上げますよ。

 パソコンとワープロの歴史、お読みいただけて嬉しいです。僕自身、つぶさに体験して
来たことなのですが、忘れているので、調べてみて、心覚えのためもあって、書いたので
すが、コモドールなんて懐かしい機械をお使いだったんですね。
 OSについても、CP/Mとか、DOSとか、訳がわからずに使っていました。懐かしい
思い出です。

 ワープロ専用機は遂に姿を消しましたね。残念がっている人も多いみたいなのに。

 現代は、白亜紀に例えると、大型計算機が巨大恐竜、パソコンが中型、小型恐竜、携帯
が恐竜の蔭に隠れてひそかに将来の発展を準備してる哺乳類だったりして、などと思って
おます。

 いいメールを有難うございました。

石居

2010年6月10日木曜日

病床五尺 その27

610日 晴れ

 5時半にはドアの方には日がさして、窓の方からは烏の声が聞こえる。


 弾き語りフォユウは白秋作詩「城が島の雨」を3人の作曲で聴かせた。橋本邦彦、山田耕筰、梁田貞の3人、初めの2曲は関貞子が、最後の曲は青山京子が歌った。関貞子の声の立派さに驚く。最後の曲が一番ポピュラーな普通聴かれる曲だがこれが一番古い作曲。聞き慣れてることもあるかもしれないが、一番いい。橋本のものも悪くないが堅い。山田のが一番印象が薄いのは意外だった。

 バロックの森は「歌劇オルフェオから プロローグ と 第3幕 第1場」ルイージ・ロッシ作曲「歌劇恋するヘラクレスから」ピエトロ・フランチェスコ・カヴァルリ作曲 ・シンフォニア ・プロローグの抜粋、第5幕のフィナーレの抜粋、「病の愛の神のバレエから エールこびのない愛とは何なのか」リュリ作曲、「プシシェから エール ああ、わたしの嘆きに泣いておくれ」リュリ作曲 

 今日は朝早くベッドのふちに腰掛けたが腰が辛くて8分くらいでダウン。

 朝食はかなり美味しかった。Iさんにベッドをゆっくりと上げてもらったこともあってか、楽に座っていられて、40分くらい座っていた。

 今日は9時ころにTさんがやってきて、ベッドでの手足のリハビリ、終わると直ちに車椅子に移ったが意外と楽に座れた。外来を通り抜けて、1階のリハビリ室に移動して、歩行訓練。何のことはなく、両側のバーで体を支えれば5mくらいを簡単に歩ける。最初は手を添えてくれたが、2回目はことわって一人で歩いた。部屋に戻って、30分車椅子で座るとのことで、同室のYさんと話してたりしたら、あっという間に終わった。

 Yさんはワープロの方がパソコンより先にあったと主張する。彼は日立で技術者だったと言って自信たっぷり。プログラムだって作ったことがあるという。もっとも電話でも画像でも今はパックで送るからなどというので、パソコンやインターネットにについては無知らしい。パックとはパケットのことだと思う。僕がパソコンの方が先にあったのではと言っても、いえいえ、日立ではワープロを以前から開発していて、隠してあったんですから、といってきかなくて物別れ。
 後でワープロの歴史を検索してみてわかったことは、彼のいうパソコンとはワープロ機構のあるパソコンという意味だろう。彼にとってのパソコンは文字を書いたり、文書を処理する機械だからだ。そう考えると彼が正しい。パソコンに対して拒否反応を示す典型的老人の彼にとっては、いたしかたないことかと思った。 そこで、「今、調べたら、日本語の場合、ワープロ専用機の方がパソコンのワープロより先でした。先輩の言は正しかったです」と言ってあげたら喜んでいた。

 検索結果の一部:
日本で最初に発売されたワープロは東芝のJW-10で、1978926日に発表され、翌年2月から出荷された。 
    価格  : 630万円。
    記憶装置: 10MB-HardDisk, 8inch-FloppyDisk
    書体    : 独自開発。コードは発表されたばかりのJISに準拠。
    表示装置: 中央無線製ラスター式CRT 24dotの漢字を 41桁×14行表示
    プリンタ: ワイヤドット式 24dot/文字 (独自開発)
    CPU  : ミニコンTOSBAC40CCPU相当をLSI化したもの。

 このCPUはミニコン(今のパソコンに当たるもので、当時はミニコン、マイコンという語がつかわれた)のものなので、ミニコン、すなわちパソコンの方が先にあったのはこれでも明らかだが、議論の外の問題)。 

 これに対して、

  パソコン上で動く日本語ワープロソフトが出始めるのはその翌年1983年。最初に一般販売されたのは日本電気(京セラ)[PC-100]対応の JS-WORD (198310)で、その後1984年に今度はIBMJXシリーズ用のjx-WORDPC9801対応のワープロソフトとしては 19852月「jx-WORD太郎」が発売された。

 となっていて、日本語のワープロ機能で見ればワープロ専用機の方が、パソコンよりも先になっている。しかし、いまのパソコンみたいなものの歴史はもっと古い。横川電機とヒューレット・パッカードが出したYHP-30RAMが5KB, モニターは124文字、外部記憶装置がカセットテープ)は1972年ころであるし、ワンボード・マイコンと言われたApple I 1976年発売。 僕が作った最古のべイシックのプログラムは1974年。NECのTK-80も1976年である。1977年には整数型BASICインタプリタROM、ビデオ表示回路、JISキーボードなどからなるTK-80BSBasic Station)発売(定価128,000円)。
シャープのMZ-80K1978年)、日立のベーシックマスターMB-68801978年)、NECPC-80011979年)が発売された。当初はこの3機種が8ビットマイコン初期の御三家と言われた。

 ベッドに戻って少しして、体を拭きに来てくれた。さすがに、腰の筋肉が敏感になっていて、圧迫すると痛かった。しかし、横になっているうちに治る。

写真は石山さん撮影の5月28日の富士山 






2010年6月9日水曜日

病床五尺 その26

69日 水曜日 曇りか
  
朝作った駄句を三つ

Kさんのお酒へのお誘いに 

一献に君頬染めて梅雨に入り 

春の思い出
 
花びらを追い小走りのおとめかな 
黒髪にひとひらの花弁置きにけり
 
今日の検温はK看護婦さん、同室のKさんの質問に、「赤血球に結びついた酸素の量、いやパーセントを測ってる」というように、反射的に量を割合に訂正していたのに感心する。理科の基礎が分かっている人である。ちょっと珍しい。
酸素96%、体温は最初の1分で36.9度、5分くらいしたら 36.5度に下がった。血圧は訊くのを忘れた。ここのも、我が家のと同じで、1分では高めに出る。正確に測るには5分か6分かけるべきだ。

 今日は朝早く一度、5分くらいベッドの縁に座ってみた。11時ころに2度目。座ってパソコンを打ってみた。かなり腰が辛いが1-2分くらいなら耐えられる。結局8分近く座れた。少しづつ長くしていこう。

 昼食は山口さんがゆっくりと上手に速度を調節して、ベッドの背を持ち上げてくれたので、楽に座っていられた。こういうこと一つでも、経験と職業意識が大きく影響する。

 午後、Tさんの代役のSRさんが来る。これだけ脚力があるんだから、歩いてもいいんじゃないかとのこと。車椅子で20分というので、パソコンでメールを書いていた。手をひじ掛けについてると楽なのだが、前腕で支えないと体重がもろに腰にかかるので、辛い。看護婦のYさんの言うことには、立つときにはコルセットで腰を固定すると楽だという。きっと座るときもそうに違いない。やってみよう。

時ころにO先生が来て、足を上げさせられた。その様子を見て、もうどんどん歩いていいですねと言う。座るのも歩くのも、負荷は同じとのこと。ただ、どしんと座らないことと言われた。

 夕食前に栄養士のUさんという女性が来て、手違いで夕食の魚に骨がついたのが来てしまってと、謝罪と断りに来た。奇麗な人であるが、僕のところだけに来たのが解せなかった。この人ならいつでも歓迎なのだが。


 朝、髭をそったりしていて、バロックの森の最初の方は聴き損ねた。
聴けたのは、

「前奏曲」フランソア・デュフォー作曲、「サラバンド」フランソア・デュフォー作曲
「ブーレ」オトマン作曲、「アルマンド」デュビュイソン作曲、「サラバンド」             サント・コロンブ作曲(リュート、テオルボ)バンジャマン・ペロー、            (ヴィオール)フロランス・ボルトン
「アルマンドル・ムティエ」 「クラント」 「サラバンド」、以上は             シャンボニエール作曲、(クラヴサン)フランソアーズ・ランジュレ
「シャコンヌ」シャンボニエール作曲、(クラヴサン)オリヴィエ・ボーモン
「シャコンヌ」ルイ・クープラン作曲、(クラヴサン)ジョヴァンカ・マルヴィル
「ジーグ」フローベルガー作曲(クラヴサン)バンジャマン・アラール

やはり、リュートやクラブサンの音は格別。


2010年6月8日火曜日

病床五尺 その25

6月8日 火曜日 曇り

 バロックの森は
 作曲者不詳の「“夜のバレエ”から 序曲」「夜のバレエから 昇る太陽の場面の音楽」
 リュリの平和の牧歌から 王太子妃のためのエール」「寛大な恋人たちから アポロンのアントレ」「愛の勝利から アポロンのアントレ」「愛の勝利から 第4幕 第2場の第2エール」、コルディエ作曲の「ク―ラントのラ・ポカンヌ」、リュリの「スペインのフォリアによるオーボエのエール」「“快楽のバレエ”から」
 解説は関根敏子という信じられないほど低速でしゃべる女性。教え子Kのご母堂もおっとりしたしゃべり方のであるが、それよりもはるかに遅い。

朝の血圧は128と85。酸素は94%、体温はYさんの赤ん坊用の体温計で36.2度。

 9時ころにTさんが来てリハビリ、O先生に今後の予定を訊いてもらう。

 10時前に入浴、今日もFさんとHさんがストレッチャーで2階の浴室まで連れて行ってくれる。仲良しのヘルパーのIさんが賑やかに迎えてくれた。準備をしてる間、廊下で待ってるとF、H両嬢を相手にIさんがズロースって知ってるかとか、提灯ブルマーって知ってるかと訊いている、二人とも知らなくて、Iさんが解説してるのが聞こえてくる。迎えに出てきたIさんが笑ってた僕に「間に一線あるね」という。40代が境かも。
 今日は浅いビニールのプールみたいのに移されて、Iさんが丁寧に全身を洗剤で洗い、さらに小さいタオルで、こすって垢を落としたうえ、足指などは手でもこすって磨いてくれた。今日もFさんが見学していた。もう一人いたのは芝のYさんのようにも、IHさんのようにも見えた。たぶん、IHさんだろう。浴室にいた間中、Iさんとの会話は賑やかで楽しかった。IHさんやFさんも楽しそうだった。

 11時半過ぎにTさんが現れて、O先生に訊いたら、車椅子と、続いて立つ練習をやっていいとのこと。さっそく車椅子に座ったら、調子がいい。10分以上座ってから、Tさんが押してくれて、3階をぐるりと案内してくれた。総計30分くらい座れ、無事にベッドに戻る。Tさんは明日は休みなので、本式の訓練は明後日からになりそう。車椅子の次は廊下のバーにつかまって立つことから始まり、その次は2階のリハビリ室だという。リハビリ室は来週でしょうかねとい言うので、結局5週間くらいの入院になりそう。
 戻って、5分もして昼食、Y看護婦さんが心配して寝て食べますかと言ってくれたが、体を起こして食べることにした。案外平気で30分くらいそのままでいられた。Yさんはお風呂で血液循環がよくなってるからという。気分が明るくなった。

 午後にはT氏が見舞いに来て下さった。彼と話してるうちに、なんとIBさんご夫妻も来て下さった。家人もやってきて総勢4人のお見舞いで賑やかだった。

 


2010年6月7日月曜日

病床五尺 その24


6月7日 月曜日 晴れ

 バロックの森は途中から、ジャン・バチスタ・リュリの曲をやっている。「銃士隊の行進」「銃士隊の訓練」「銃士隊の退却」「銃士隊のオーボエ奏者のためのトリオ 第1番」「銃士隊のオーボエ奏者のためのトリオ 第2番」「銃士隊のオーボエ奏者のためのトリオ 第5番」「銃士隊のオーボエ奏者のためのトリオ 第3番」「銃士隊のオーボエ奏者のためのトリオ 第7番」、
ラ・ヴォア・ミニョ作曲 「管弦楽組曲 変ロ長調」、 
リュリ作曲 「快楽のバレエから」・序曲 ・2つのアントレ ・第2の序曲、「アルシディアーヌのバレエ序曲」 

 リュリの曲はいかにもバロックらしい。      


朝の検温: 血圧 118に71  体温36.6度 酸素は96%。

 10時過ぎに桜庭さんがいたベッドのところに入ってきたFさん、どこかほかから手術かなんかで入ってきたらしい。手術は済んで、明日の午後には退院の様子。

 10時半ごろ高野さんが来てリハビリ、膝上の筋肉が落ちてるので立つのが大変かもと言われた。確かに、膝のすぐ上が細くなってしまっている。足の運動を頑張ってやることにした。

終わってから車椅子に座ってみる。この前より楽になった。腕で体重を少し支えてると、ほとんど苦痛がない。自分でブレーキ操作もやれた。しかし、長い時間は無理。せいぜい、2-3分。頑張れば5分くらいか。

今日は眼鏡かけたIさんという看護婦さんが来ていたが、Yさんは土曜日の代休で休んでるという。掃除のおばさんによると、Yさんが来るまでは3階の看護婦は毎日替っていたとのこと。Yさんはすべてを心得ているので、彼女がいないと心細い。

 新入りのFさんは色々と看護が大変らしく、看護婦が付ききりのようである。点滴もしていたみたいだった。YOさんという素敵な顔立ちの看護婦が来て看護をしていた。


  親友K氏ご夫妻から戴いたものは毎食後にいただいている。ちょうど、手元にカメラがあったので、撮ってみた。ゼリー菓子というのは案外難しかった。外に出して撮れば良かったのかも。げんこつ煎餅、成田山新勝寺参道のお煎餅屋さんを思い出した。
 入院以来、堅いものを食べてなかったので数日前に初めておせんべいを食べたら、歯が浮くような感じがした。今朝、ミントタブレットを食べたら、これも強烈に効いた。筋肉といい、歯といい、味覚といい、すぐになまってしまうことを知った。歩行訓練の困難さが予想できる。




 戴いた花がまだ奇麗である。








 

2010年6月6日日曜日

病床五尺 その23

6月6日 日曜 晴れ

 さすがに昨夜は熟睡できたが、ベッドの上半身が昨夜から少し上がったままになってたので腰がつらく、5時前に目が覚める。夜勤の豪快看護婦のIさんに水平してもらい6時5分前まで再眠。朝、回復の兆し。

バロックの森は
1)バッハの無伴奏チェロ組曲からハ短調 ――――― 渋い
2)ヘンデルのオラトリオ、ソロモンからシバの女王登場

血圧 118と76 酸素96% 体温36.9度



 午後1時過ぎに親友K来る。げんこつ煎餅と日本橋屋長兵衛の金魚すくいなる菓子持参。前者はKの後者は奥さんの選択。



昨日、二つの俳句をいただいた。

A.    病床の師は朗らかよ夏兆す    琥珀さんの原作
B.病床の師はおほらかに夏きざす   上の句を見て木の葉さんが提案した句

まず師と呼んでくださって恐縮、しかし男とか、君というわけにもいかないし、爺では句にならない。

 「朗らかよ」と「おほらかに」とについて、考えてみた。「朗らか」というのはどちらかというと外見である。琥珀さんは見た通り、印象の通りに「朗らか」と表現している。それに対して、木の葉さんは師の心の内面まで入ってそれを「おほらか」と表現しなおした。
 琥珀さんは師を直接見て、その病床にあっても朗らかなのが強く印象的だったので、「朗らか」の後にあえて「よ」という助詞を使ったのであろう。一方、木の葉さんはここをすなおに「に」という助詞に変えた。それで全体がなだらかになって、流れがよくなった。
最後に「夏兆す」と「夏きざす」の違いである。見た目にも前者の方が堅い感じがする。後者の方が柔らかである。仮名で「おほらかに」とくれば「夏きざす」のほうが合う。漢字で「朗らかよ」なら「夏兆す」と漢字で続けても違和感がないように感じる。

ここで前後の関係をもっと見てみよう。「病床の師」との関係では「師」という言葉のイメージからは「おほらか」と来た方が、「朗らか」よりは似つかわしい。「おほらかな師」と「朗らかな師」では前者の方がかっこうがいい。師自身はどっちを好むかは別として、読んだ人が師をその時どう感じたかによって違ってくるに違いない。
 また「朗らか」または「おほらか」と「夏」の関係である。「朗らか」とくれば、やはり「夏」だろう。「おほらか」には「夏」でもいいが「秋」の方がよりふさわしい気がするが、どうであろうか。

 たぶん、師を眼にして、そのときの印象を読んだのがAの句で、たぶん師の姿だけでなく人となりまで突っ込んで読んだのがBの句と言えるのではなかろうか。Aは生硬なところはあるが臨場感のある感覚的な句、Bは心の内面を現した流麗な句と言えよう。

なんて勝手なことを書いてみました、自分ではお二方には遠く及ばない、幼稚な俳句しか作れないのにひどいものです。でも利き酒は酒飲みでなくてもいいんだって聞いてましたので。