寒いかと思ったが、曇っているせいかあまり寒くはなかった。線路沿いから六辻水辺公園に入る。
払暁の芝園団地、
ここは20階近い高層の団地なので階段や廊下の灯りが見事に並んでいて奇麗である。ここの高いところからは富士山が見事に見えるので、かって2-3回、写真を撮りに最上階まで登っていったことがあった。
今住んでいるのは8階か9階建てのいわゆるマンションである。アパートとマンションの違いは、部屋の構造がすべて画一的で同じなのがアパートで、マンションは間取りなどの違った複数の部屋のタイプがあって、好きなタイプが選べ、内装も自分で変えられるのである、と何かで読んだことがある。
このマンションは僕にとっては13番目の住居である。生まれたのは旧東京府荏原区中延の小さな借家で、その後、同じ中延のもっと大きな庭のある借家に移った。隠居所だった祖父の家の裏にあって、垣根の木戸で祖父の家に通じていた。3番目と4番目は父の転勤で行った小倉の会社の社宅で、ここも最初に済んだ小さい家と、次に住んだより大きな家とがあった。場所は市内だったが、30分も歩くと足立山という標高数百メートルの山並みがあり、近くには紫川というkなり大きな川が流れ、自然に充ちていた。
5番目は苫小牧市の勇払にあった父の勤めていた会社の社宅だった。ここはそぐ外に広大な勇払原野が広がり、かつ怒涛の渦巻く太平洋にも面している場所で、素晴しい環境だった。
その後は、当時の戸畑市にあった波多野医院のうらの波多野先生ご一家の住居であった。ここの2階の一室に住んで1年半くらい波多野家のお世話になっていた。
大学時代の4年間は杉並区井荻にあった在京小倉高校卒業生の寮だった。すぐ近くに住む自民党代議士の熊谷憲一氏のお世話で小倉高校が運営していた寮生14人のところだった。粕谷さんという老夫婦が食事の世話をしてくださっていた。ここが7番目である。
大学院に入ると同時に、退職して移り住んだ千葉県柏市にある両親の家に戻り、ここに3年近く住んだ。その後、本郷の東大農学部の脇にある家の二階に間借りして住み、続いてニューヨーク市内のマンハッタンのやや北部、ハドソン川に近いアパートに1年半近く住んだ。
帰国してすぐは池上にあるあるお宅の離れをお借りして住み、それから杉並区矢頭町というところにある小さな家に移った。ここが11番目になる。
この後、友人に付き合って申し込んだ住宅公団のアパートの3Kという当時としては広い部屋の抽選で当たって、埼玉県民として上福岡の団地に住むことになった。ここには10数年すんで、最後に13番目になる今のマンションにやってきた。
正確にはその間、一時的にワシントン州のSanJuan島FarydayHarborにあるワシントン大学臨界実験所の小さな小屋と、シドニー市郊外にあるマコーリー大学の持ち家と、シアトル市郊外にあるワシントン大学近くのアパートに、それぞれ2カ月くらい住んだことがあった。これらを入れると16箇所になる。
よくこれだけ、いろいろなところに住んだものだと思う。しかし、埼玉県民がもっとも長くて、いつの間にか40年近く埼玉県民をやっていることになってしまった。しかし、ここ10年を除くと、18歳以後は通学通勤先がずっと東京市内だったので、千葉県や埼玉県に住むようになっても県民意識は皆無だった。埼玉県で育った長男が高校生のときに「お父さん、僕ちょっと東京に行ってくる」といったのにびっくりした。僕は毎日東京に行っていたのだが、東京に行くという意識は全く持っていなかった。
よくまあー、これだけあちこちに住んだものだと思う。
暗闇で咲く山茶花
花水木の梢、冬になると小枝の先端にある蕾が膨らんできて目立つようになる。我々の体の神経は樹状に枝分かれしていて、その筋肉などに終わる先端が膨らんでいるそうであり、そこをターミナルボタン(終末ボタン)というと習った。
この冬の花水木の梢を見ると、無粋にもこのターミナルボタンという言葉を思い出すのである。
六辻水辺公園の用水の縁に植えてあるツツジの葉が黄色くなっていいる
木蓮の大きな落ち葉
この冬はバラがひときわ奇麗に咲いている
見事に色づいたイチジクの実
咲きそうで、なかなか咲かない中庭の水仙
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