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2011年12月16日金曜日

Susumu の日記 2011年 -326-

12月16日 金曜日 曇り

寒いかと思ったが、曇っているせいかあまり寒くはなかった。線路沿いから六辻水辺公園に入る。


払暁の芝園団地、


ここは20階近い高層の団地なので階段や廊下の灯りが見事に並んでいて奇麗である。ここの高いところからは富士山が見事に見えるので、かって2-3回、写真を撮りに最上階まで登っていったことがあった。

今住んでいるのは8階か9階建てのいわゆるマンションである。アパートとマンションの違いは、部屋の構造がすべて画一的で同じなのがアパートで、マンションは間取りなどの違った複数の部屋のタイプがあって、好きなタイプが選べ、内装も自分で変えられるのである、と何かで読んだことがある。

このマンションは僕にとっては13番目の住居である。生まれたのは旧東京府荏原区中延の小さな借家で、その後、同じ中延のもっと大きな庭のある借家に移った。隠居所だった祖父の家の裏にあって、垣根の木戸で祖父の家に通じていた。3番目と4番目は父の転勤で行った小倉の会社の社宅で、ここも最初に済んだ小さい家と、次に住んだより大きな家とがあった。場所は市内だったが、30分も歩くと足立山という標高数百メートルの山並みがあり、近くには紫川というkなり大きな川が流れ、自然に充ちていた。

5番目は苫小牧市の勇払にあった父の勤めていた会社の社宅だった。ここはそぐ外に広大な勇払原野が広がり、かつ怒涛の渦巻く太平洋にも面している場所で、素晴しい環境だった。

その後は、当時の戸畑市にあった波多野医院のうらの波多野先生ご一家の住居であった。ここの2階の一室に住んで1年半くらい波多野家のお世話になっていた。

大学時代の4年間は杉並区井荻にあった在京小倉高校卒業生の寮だった。すぐ近くに住む自民党代議士の熊谷憲一氏のお世話で小倉高校が運営していた寮生14人のところだった。粕谷さんという老夫婦が食事の世話をしてくださっていた。ここが7番目である。

大学院に入ると同時に、退職して移り住んだ千葉県柏市にある両親の家に戻り、ここに3年近く住んだ。その後、本郷の東大農学部の脇にある家の二階に間借りして住み、続いてニューヨーク市内のマンハッタンのやや北部、ハドソン川に近いアパートに1年半近く住んだ。
帰国してすぐは池上にあるあるお宅の離れをお借りして住み、それから杉並区矢頭町というところにある小さな家に移った。ここが11番目になる。

この後、友人に付き合って申し込んだ住宅公団のアパートの3Kという当時としては広い部屋の抽選で当たって、埼玉県民として上福岡の団地に住むことになった。ここには10数年すんで、最後に13番目になる今のマンションにやってきた。

正確にはその間、一時的にワシントン州のSanJuan島FarydayHarborにあるワシントン大学臨界実験所の小さな小屋と、シドニー市郊外にあるマコーリー大学の持ち家と、シアトル市郊外にあるワシントン大学近くのアパートに、それぞれ2カ月くらい住んだことがあった。これらを入れると16箇所になる。

よくこれだけ、いろいろなところに住んだものだと思う。しかし、埼玉県民がもっとも長くて、いつの間にか40年近く埼玉県民をやっていることになってしまった。しかし、ここ10年を除くと、18歳以後は通学通勤先がずっと東京市内だったので、千葉県や埼玉県に住むようになっても県民意識は皆無だった。埼玉県で育った長男が高校生のときに「お父さん、僕ちょっと東京に行ってくる」といったのにびっくりした。僕は毎日東京に行っていたのだが、東京に行くという意識は全く持っていなかった。

よくまあー、これだけあちこちに住んだものだと思う。



暗闇で咲く山茶花




花水木の梢、冬になると小枝の先端にある蕾が膨らんできて目立つようになる。我々の体の神経は樹状に枝分かれしていて、その筋肉などに終わる先端が膨らんでいるそうであり、そこをターミナルボタン(終末ボタン)というと習った。
この冬の花水木の梢を見ると、無粋にもこのターミナルボタンという言葉を思い出すのである。




六辻水辺公園の用水の縁に植えてあるツツジの葉が黄色くなっていいる




木蓮の大きな落ち葉





この冬はバラがひときわ奇麗に咲いている




見事に色づいたイチジクの実




咲きそうで、なかなか咲かない中庭の水仙




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2011年12月15日木曜日

Susumu の日記 2011年 -325-

12月15日 木曜日 晴れ

昨夜は新宿にいったりして、少しおそく帰ったのだが目覚ましなしで定刻に眼が覚めた。今日は晴れで気温も高いというので、朝走るのは止めにして日中歩くのもいいかと思って、昨夜、目覚ましをかけないで寝た。そういうときに限って、皮肉にもきちんと自動的に眼が覚めてしまう。その上、朝から体もしゃんとしている。諦めて走ることにした。小谷場公園コース。



外郭環状、6時18分、右手遠方に芝中学の岡がある




小谷場公園のメタセコイア




大輪の奇麗な薔薇、小谷場で




豪華な多弁?の薔薇




見事な山茶花は団地のフランドの縁に




中庭の水仙は咲きそうでいてなかなか咲かない





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2011年12月14日水曜日

Susumu の日記 2011年 -324-

12月14日 水曜日 朝は小雨

降ってないと思って鬼沢橋に向かった走り出したら、僅かに降っていたのが顔に雨粒が当たるのを感じ出し、南小学校近くで引き返すことにする。
服が濡れるのは嫌なのだが、体が雨に濡れること自体はそれほど気にならない。小倉(今の北九州市の一部)に住んでいた子供の頃、台風で豪雨が降るとすぐ下の三歳違いの弟と海水パンツで庭に出て雨を浴びて楽しんだことがあった。

そのあと、雨はやんだが洪水となった。わが家は床下浸水程度なので、弟を連れて外に出てみた。そこらじゅう、ただ泥水ばかりで道路も空き地も区別がつかない。下駄が流れてきたかと思うと金魚も流れてくる。面白がって歩いているうちに、ふと振り返ると後をついて歩いていた弟の姿がない。左後ろの泥水がうずまいていて、その中から泡が出てくる。かがんで手を突っ込むと何かに当たったので、捕まえて引張りあげると弟だった。戦争直後のことで、道端に防空壕が掘ってあり、弟はそこに落ちたのであった。弟に、「このことは内緒だぞ」といい含めて、早々に家に帰った。

僕が遊びに行くのに、いつもついてきたがった弟だった。よく相撲をとったり、取っ組み合いの喧嘩もした。当然いつも僕が勝っていた。二人とも大学生になってからのある日ことである。ふざけて弟に組み付いたら、あっという間に投げ跳ばされてしまった。びっくりしたのは僕だけでなく、僕より背の高くなっていた弟の方もだった。以来、互いに取っ組み合いは避けて、全くしなくなった。
弟は3年ほど前に好きだった酒がたたったのか、胃がんで亡くなった。5人兄弟の中で最初に代を去ったのは一番元気で逞しかった弟である。



蕨市中央のお煎餅屋さんの入り口にあった人形
蕨は機織が盛んであったことから、今でも呉服屋さんや染物屋さんが多いが
草加が近いせいか草加煎餅を売り物にした煎餅屋も多い





雨に濡れた銀杏の落ち葉



2号棟裏口のスズランもすっかり枯れてしまった。緑なのは実生のクス




北の空は明るくなっている、午後は晴れるとの予報





昨日は快晴で気温も比較的高かった、出かけたとき道端で撮った薔薇





まだアベリアが咲いていた、花と実と空の色が美しかったので





紅葉は午後の陽に映えて





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2011年12月13日火曜日

Susumu の日記 2011年 -323-

12月13日 火曜日 快晴

Facebookにある方が今年は喪中を知らせる葉書が例年になく多いと書いておいでだった。僕のところにもいくつもの喪中で年賀欠礼のお知らせがとどいている。やはり例年になく多い気がする。

今年亡くなった若い頃からの親友だったKや、最初の弟子だったY君の奥さんからもいただいていることが、一層その感を強くしているのかもしれない。また大学院時代の後輩だったH氏も奥さんをなくしておいでだった。
もっとも、ただ単に僕が歳をとってきていることから、交友関係のある方々やそのご家族も年々、年をとってきておいでになる。したがって当たり前のことなのかもしれない。

この冬も例年のように霜がおり始め、木々が葉を失い、寒さが厳しくなる一方、早くも春の兆しが見え始めている。個体の命は短くても、生物の種としての命は長く、さらに地球の命はもっと長い。われわれは生物種や地球の周年変化は感じても、その加齢変化はほとんど感じるとることが出来ない。

いつか、急に生物種が次々と死に絶える時期がやってきたり、惑星が次々と終末を迎える時期がやってくるのだろう。

日記を書き始めようとしたら、何故か、こんなことが頭に浮かんでしまった。今朝は六辻標準コースを走った。



6時3分、東の空が明るくなり始めるのは6時頃からなのだろう。まだ暫くは明るくなるのがおそくなるはずである。





団地の建物の東よりの壁面は東の空の明るさが反射して、明るくなっている




街灯に露出をあわせて、さらにマイナス2に露出補正をして撮った月




欅の根元に小さな花が咲いていた




空が明るくなるとそのままの露出で月が奇麗に写るようになる、文蔵で




文蔵神明社の木立にかかる月




六辻水辺公園遊歩道ではもう水仙が何輪か咲き始めていた




辻では木瓜が満開




蕨高校通りの歩道に落ちた花水木の枯葉




中庭の水仙の蕾が被いから顔をのぞかせ始めた




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2011年12月12日月曜日

Susumu の日記 2011年 -322-

12月12日 月曜日 晴れ

歳をとっても元気なつもりではいるし、一応は元気なのだが、老化は明らかで、まずは傷の治癒が遅い、若い頃なら2-3日で治った引っかき傷が1週間たっても治りきらない、立ち居振る舞いがおそくなってしゃがむのが億劫だし、しゃがんだら立ち上がるのが大変だし、ちょっとした言葉がなかなか思い出せないし、人の名前を聞いてもすぐに忘れる。致命的なのは素敵な女性を見ても、心がときめかなくなったことである。

そのかわり、年をとってよかったと思うことも色々とある。まずは国立東京博物館の通常展示なら無料で見られたり、色々な美術館や公園、映画館などに老人割引で入れることである。中国でもたいていの名所旧跡で老人は無料だったり割引だったりする。さすが敬老の国である。もう一つは、人を許すことができるようになったことである。これは他人を理解できるようになったことによるのだろう。さらに、小説などを読んだとき、若い頃には理解できなかった(気がつかなかった)ことが、理解できるようになったことがある。したがって、若い頃より面白く読むことが出来る。ただし、若い頃のような激しい感激は感じなくなった。
まだあった、身近なこれまで気がつかなかった事物の中に、いくつもの素晴しいものがあるのに気がついたことである。若いときには気がつかなかった。開眼するという言葉があるが、年をとって心の窓が開いたのだろう。これが年をとって最も嬉しいことの一つである。


6時6分の東の空、今日も見事に晴れている




中庭の月、これも合成写真



樋ノ爪遊歩道のヒョウガミズキの生垣




同じくドウダンツツジの生垣




小谷場市民農園の霜柱




そして農村?風景




陸橋から見た富士山は雪がかなり下まで積もっていた




中庭の水仙の蕾、白い花弁が透けて見える




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2011年12月11日日曜日

Susumuの日記 2011年 -321-

12月11日 日曜日 終日快晴

日曜なので走らずにゆっくり寝た。7時過ぎに起床。日中、早稲田の学生さんにパソコンの活用法を教えにに出かけたときの写真。


有楽町イトシアから見た東京フォーラムガラス棟、下は新幹線




プランタンの裏のビルから朝日のマークを見つける。昔、ここのあたりには日本劇場と朝日新聞の(当時としては)大きなビルがあった。電車や東海道本線の列車が東京駅につく直前、有楽町を通ると、車窓からこの二つのビルがよく見えた。東海道線で東京に戻るとき、この車窓の景色を見ると、東京に帰ってきた気がひときわ強くしたものだった。
その頃の朝日新聞社の屋上には伝書鳩の小屋があって鳩が上を飛んでいることもあった。その頃でもすでに電話はあったのだが、遠距離は繋がるのに時間がかかったり、辺鄙なところには電話もなかった。そこで、伝書鳩が、軍隊や新聞社の重要な通信手段だったのである。




お昼に食事をしたときのお皿の飾り、赤い花びらが1枚だけというところがいいです




冬の陽、これでもお昼ごろ




大きなリボンはカルティエ銀座店




歩行者天国、日陰の路面にビル壁面からの太陽の反射光が映っている




ブル狩り銀座店の前で「ここが銀座通り」かとガイドブックを見ている観光客




帰ったのはまだ5時ちょっと過ぎだったが、もう暗くなっていて真ん丸い、皆既月食翌日の月が出たところだった。合成写真