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2011年11月26日土曜日

Susumuの日記 2011年 -307-

11月26日 土曜日 晴れ

昨夜は早稲田のTK教授の主催で開かれたたある送別会に出ておそくなったので、今朝は寝坊。

昨日の午後は20年前からのニュージーランドの友人、JFC博士の息子さん Peter と David を連れて丸の内界隈と秋葉原にいった。そのときの写真。

JFC博士は彼がイギリスのブリストルで学位を取り、ニュージーランドのポルマーストン・ノースにある母校に戻ったときに、彼のブリストルでの研究室の先輩に当たるシアトルのJCW教授から、地理的に最も近い?ところにいる、近い分野の研究者として助けて上げて欲しいと依頼された人である。JCWとは1970年代に彼がアメリカに渡ってすぐにいたシアトルのワシントン大学で友人になった。彼の奥さんは今は研究者であるがマリリン・ラメノフスキーといって東京オリンピックのときの背泳の銀メダリストで、そのメダルを見せていただいたことがある。

そのようなことで、1990年に国際鳥類学会議がニュージーランドのクライストチャーチで開催され、それに参加したときの帰りに、当時の教え子で、現在は東京大学教授のKK博士とポルマーストン・ノースによって、JFC博士の研究室を訪れた。以来、彼とは共同研究などを通じて、交流が続いている。彼には絶滅危惧種であるカカポを放鳥してある島や、原始的なトカゲの1種, ムカシトカゲ(トゥアタラ)がいる絶海の孤島などに連れて行っていただいたりと、ずいぶんお世話になった。

トゥアタラについては、そのホルモンの遺伝子を調べるため、DNAを入手したかったのである。ところがこのトカゲは、ニュージーランドの先住民族であるマオリ族の人たちの信仰の対称なので、たとえDNAであろうと、それを国外に持ち出すというのは簡単な話ではなかった。ニュージーランドの環境省からの許可は得られたのだが、マオリ族の人たちの合意を得るのが難しかった。しかし、JFC博士の努力とこの島のある地方のマオリの指導者の方のご好意でこのDNAを持ち出す合意が得られて、指導者のご夫婦がエスコートしてDNAが到来し、僕の研究室で、引渡しの儀式が行われた。これは、前後を通じて僕の研究室で行われた唯一の宗教的儀式だった。

昨夜の送別会は、このJFC博士がTK教授との共同研究のための日本滞在を終えて、帰国するにあったっての会だった。



三菱1号館




東京フォーラム地上広場
欅が美しい





 東京フォーラムガラス棟の地階




デンマーク大使の信任状奉呈の迎えの馬車、信任状奉呈には希望によって馬車が使われるのだが、東北大震災のときに、皇居正門の屋根瓦が一部破壊されて、通行が出来なくなったことから中止されていたが、このたび、修理も終わったので、デンマーク大使とスウェーデン大使の信任状奉呈から馬車が再開されたという。本来は東京駅正面玄関からなのだが、いまは駅が工事中なので、ホテルからとのことだった。


丸ビル



赤レンガのビルは銀行協会 



銀杏並木



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2011年11月25日金曜日

Susumuの日記 2011年 -306-

11月25日 金曜日 晴れ

今日は鬼沢橋・蕨神社コース。橋は鬼沢橋だがこの付近の地名は喜沢、たぶん地名は元々は鬼沢だったのを、鬼では聞こえが悪いというので喜に変えたのではなかろうか。

日本中あちこちで地名がどんどんと変わってきた。昭和20年代の終わりごろ、御茶ノ水から本郷に行くときに金助町と言うのを通っていった。いまはそのあたりは本郷の一部に入ってしまって、金助町は消えてしまった。小石川高校のあたりは駕籠町といったが、いつだったか早稲田から上野に行くバスに乗って、駕籠町通りますかって訊いたらそんなところありませんよといわれてしまった。小石川高校のあたりだといったら、あーー、それなら千石でしょうといわれてしまった。

極め付きは僕の本籍地である。生まれた頃は荏原区中延町といった。その後、品川区東中延に変わった。あるとき、品川区役所に戸籍謄本を取りに行って、東中延の本籍を書いて申請したら、窓口の人からそんな本籍ありませんよといわれてしまった。そんなこといわれたって、ずっとそれでこれまで何度かここで謄本や抄本を申請して来てるんだから、ないはずはないと、窓口の人とやり合っていたら、奥からお年寄りの人が現れて、窓口の人に、「おいおい、それは豊町のことだよ」といってくれた。 それで、やっと戸籍謄本がもらえた。区役所は本人に断らずに勝手に戸籍を変えてしまうなんて迷惑な話でとんでもないことである。

もっとも僕は東京都民より埼玉県民の方がはるかに長くなっているので、本籍は埼玉県に変えたほうが便利なのだろうが、面倒くさいのでそのままにしてある。



5時22分の東の空、真っ暗なので晴れているのか曇っているのか分からない




これは僕が蕨の怪人と名づけている人である。僕がジョッギングを始めて蕨駅周辺を走るようになって、24年以上になるのだが、10年位前から、朝よく見かけるのがこの人なのである。とにかく、いつもすごい量の荷物を背負ったり担いだりして、蕨駅周辺を黙々と歩いている。服装は汚くなく登山風なのでホームレスではない。暫く見かけなかったのであるが、今朝は久しぶりにお目にかかった。立ち止まって何かしてるところを遠くから撮らせていただいた。不思議な人である。




南町の花梨通りの道端の生えていたスミレ、実がなっている。この頃時々見かけるツマグロヒョウモンの幼虫はこういうスミレを餌に生きているのではないかと思う。ときに道を歩いている幼虫を見かける。




中央小学校脇の欅、見事に黄葉していた




サザンカ、雄蕊が見事だったので




菊2種




中庭で、ヒヨドリの糞?




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2011年11月24日木曜日

Susumuの日記 2011年 -305-

11月24日 木曜日 快晴

六辻・三学院コース、よく晴れている割には寒くない。

今朝のテレビや新聞で立川談志師匠の死が報じられている。

3年ほど前だったと思う。銀座6丁目の交詢社がある通りを外堀通りから中央通りに向かっていたときである。交詢社の手前辺りの通りの左側に大正か昭和初期ではないかと思われるスタイルの古いビルが目についた。「瀧山ビルヂング 中央区銀座西6丁目五番地」と書いてあった。

古いビルに目のない僕は遠慮しながらもさっそく中に入ってみた。中は古めかしい階段が暗い上階に続いている。すると、その階段の上から人が降りてきた。額にタオルを巻いてジャンバーをきた初老の男である。僕が住民かなんかと思ったのか「ちょっと中を見せてもらいました」という。僕が「いえ僕も中を見たくて入ったんです」というと、「毎日前を通ってるのにこんなビルがあるなんて気が付かなかったよね」とかいいながら、そそくさと出ていった。

言葉遣い、アクセント、風体のどれをとっても、下町の東京生まれ、東京育ちと思われたが、どこかで見た顔だった。連れが「立川なんとかういう落語家じゃないですか」というので「そうだ、談志師匠だと気がついた。外に出てみると、師匠はそそくさと銀座通りと右に折れていった。

僕にとっては出会って言葉を交わしたのが最初でかつ最後になった人がこれで三人目である。最初はNHKの和田信賢アナウンサーだった。当時、高校1年か2年だった僕は、あることから出版社の北隆館主催の集まりに出て、その後、北隆館の招待で銀座の三笠会館で夕食をごちそうなった。その席のすぐそばに昼間の会の司会をしてくださった和田さんがおいでで、「後輩の藤倉修一君が司会している二重の扉という新番組があるので、ぜひ公開録音を見に行って応援してやってください」とおっしゃって名刺に紹介を書いてくださった。残念ながら見には行けなかったし、その名刺もどうしたか記憶にない。その後、和田さんはパリで亡くなられ、三笠会館でお話ししてくださったのが最初で最後になった。

二人目の人は友人の小石川高校時代の同級生で、山手線の新宿と高田馬場の間で出会って友人から車内で紹介された。当時早稲田大学の学生だったその人は、そのしばらく後にある事故で亡くなられたと新聞で報じられた。

3人目が立川談志師匠である。あの飄々とした後ろ姿が印象に残っている。僕は落語が好きなので、特に惜しい人を亡くしたという感が深い。ご冥福を祈りたい。



6時5分の東の空、快晴、もうじき日が登りそうだ




蕨高校通り、道標が立っていて、WARABI KOKO DORI と書いてある。これでは土地勘がなければ「蕨此処鳥」と思ってしまいそうだ。日本語の母音の長音についてはしっかりしたローマ字表記をきめるべきである。さもないと、ローマ字表記がもっと普及していったときに、いろいろな誤解が起こってしまうことは間違いない。




三学院の手洗いには金色の玄武が飾ってある。このお寺は金亀山という山号なので、それにちなんだのであろう。この手洗には水琴窟が仕込んであるのだが、せわしない音で感心できる出来ではない。




三学院には露座の巨大な十一面観音立像がある。その頭部、さっきまでオナガがとまっていた。




中庭のシクラメン




帰宅した時の東の方向、快晴なのに風が弱いので霞んでしまっている




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2011年11月23日水曜日

Susumuの日記 2011年 -304-

11月23日 水曜日 晴れ


今日はかなり寒い。かっては2年くらい冬も半そでシャツ、半ズボンで通したことがあった。よく頑張れたなと思うのだが、暖冬だったのかも知れない。今朝もそろそろ、やせ我慢せずに温かくして走ってもいいかなと思った。しかし、走り終わる頃には寒さを感じなくなっている。かといって、汗をかいているわけでもない。いくらか呼吸が弾んでいる程度である。



5時46分、三日月が奇麗だった




かなり細い月だった 英語の sickle moon 鎌月とはよくいったものだ




芝園団地(右と中央)と芝園ハイツ(左)、30年ほど前、この芝園は何時の一角を購入して入居したとき、アパートに入ったと思っていたのだが、僕以外の人はみなマンションと言う。そこで、アパートとマンションの定義の違いを調べてみた。
すると、ある本か雑誌に「共同住居で一棟の全部屋の構造が同じなのがアパートで、マンションは部屋の間取りに複数の種類があり内装なども購入した人が自分の好みで変更できる」と書いてあった
僕も最初は依怙地にアパートといっていたが、今は妥協してマンションといっている。




樋ノ爪のキダチチョウセンアサガオ




菊と蜜柑、峯町で




峯町の紅薔薇




欅の黄葉、長徳寺で




長徳寺の庭




地蔵の秋




もう一枚長徳寺の庭



蕾がきれい






中庭の落葉




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2011年11月22日火曜日

Susumuの日記 2011年 -303-

11月22日 火曜日 晴れ

今日は昨夜遅く寝たこともあって、寝坊して走らなかった。
昨日午後は人に誘われて、有名なジャズ歌手の鈴木重子さんのやっているアレキサンダー・テクニックの集まりに出席。

彼女は腰痛と同時に歌手として生命の声が全く出なくなるという悲劇に見舞われたときに、このアレキサンダー・テクニックに出会って救われたという。そこでその普及に努めていて、ボランティアとしてこの集いをやっているのである。マッケンジー・エクササイズを実行している僕としては、鈴木重子さんという個性的な歌手への興味もあって、出席してみた。出席者は歌や演劇をやっている人たちが多かった。 アレキサンダー・テクニックというのは正しい姿勢をとることによって脊椎の本来の自然な形を維持し、体の緊張を開放するというもののようだった。彼女の穏やかなゆったりとした言動や思いやり深い態度とからの、心理的な効果が大きいように感じた。
マッケンジー法はマッケンジー・エクサーサイズ(体操)という名の通り、物理療法であって、心理的な要素はほとんどないといってく熱狂的な信奉者というような人はいないようだ。アレキサンダー・テクニックは心理療法的要素が強く、有名な俳優や歌手の人たちの中でかなりの数の熱心な信奉者がいるようである。

午前中、東京フォーラムに行ったときに、ガラス棟(線路に近いほうにある建物)の写真を撮ってきた。
この東京フォーラムの建物はラファエル・ヴィニョリ(Rafael Vinoli)の設計で、都内にある現代建築の中では僕が最も好きな建物の一つである。


有楽町駅側入り口付近から外のビックカメラ方向を見たところ
欅の樹と旗のたっているポールだけがフォーラクのもの。逆方向を撮ればよかったと反省



ホール棟とガラス棟との間にある地上庭園からガラス棟を見る
ホール棟とガラス棟を繋ぐ空中通路の一部が左端に見えている




ガラス棟内上部、斜めに走る2本の梁の上は通路になっている



天井とj壁面



船の竜骨状の天井の梁


吹き抜けになっている地下の床を6階から見る




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2011年11月21日月曜日

Susumuの日記 2011年 -302-

11月21日 月曜日 晴れ

西川口駅コース。少し寒い。

今日はもう出かける時間に近いので、写真だけにする。


朝の月



薔薇は何度でも撮りたくなる



完熟無花果、美味だった




ツツジの狂い咲き



多肉植物、なんという名だろうか





 


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2011年11月20日日曜日

Susumuの日記 2011年 -301-

11月20日 日曜日 晴れてくる

僕がジョッギングを始めるようになったのにはきっかけがある。僕は若い頃から身軽で山登りは得意だった。重荷を背負って階段を上るなどというのも割りと平気だった。その頃の体重は54か55kgぐらいだった。
それが45歳のときに煙草をやめたのがきっかけだったのか、段々と体重が増えていった。しかし、特に気にすることもなく、若い頃からの大食いの習慣も改めようとはしなかったし、体調に特に異常もなかった。50台も半ばに近づいたある日のことである。研究室の若い人たちを一緒に箱根にエクスカーションに出かけた。折悪しく強風でロープウエイが運転を中止して、大涌谷から駒ケ岳頂上に向かった歩いて登ることになった。
ところがである。山登りが得意のはずだった僕は、なんと息が苦しくてみなと一緒には登れなくなっってしまた。そこで、みなには先に行ってもらい、独りだけ遅れてゆっくりと登りだした。すると、行く手の木陰から先に行ったはずの学生の一人が僕の様子をうかがっている。石居先生が倒れていはしないか心配になって、交代で偵察が来ていたのである。

これは僕にとってショックだった。みなのお荷物には絶対なりたくなかった。僕は負けず嫌いでないとはいわないが、人様の迷惑には絶対なりたくなかった。そこで、運動をして何とか体重を減らそうと決心した。

まず始めたのはウォーキングだった。池袋の駅から早稲田まで往復歩くのである。池袋から雑司が谷の墓地を抜けて、目白通りを横切って、都電の早稲田駅付近に出でてくるというルートであった。
もう一つは、池袋から雑司が谷の鬼子母神を通って目白通りを横切り、都電の面影橋か早稲田駅付近に出るというコースであった。片道で大体35分くらいかかった。ただ、うっかり目白通りで女子大の可愛らしいオネエサンの姿に見とれていると、40分になってしまうので、目白通りに出ると、しっかりと地面を見つめてよそ見しないようにして歩き、35分を維持するように努めた。

ところがとうじ70kg位になってきていた体重が増加は止まったが一向に減少しないのである。そこで、致し方なくジョッギングを始めてみた。まず朝走ろうか、夜走ろうか、どちらにしようと考えた。まずはデブがよたよたは知ってる姿なんかを人に見られたくないので、朝走ることにした。それに夜は会合があったりして遅くなうことも多いので、走るのは無理な日が多くなりそうだった。朝早くならまずは用事で走れないということはないはずである。
ということで、朝走ることにした。しかし、朝だと問題なのは冬の寒さである。しかし、そのときはまだ夏だったので、それは冬になったら考えることにして、とにかく6時頃から走りに出ることにした。

これが僕が毎朝ジョッギングをするkとになった理由なのである。確か、55歳の八月の半ば過ぎてからだった。したがって、中断期間を入れて今年の夏で24年になる。走り始めたら色々な問題が起こったが、それについては次の機会に譲りたい。



これは昨日の日中、昨日はずっと雨で、遠景がひどく霞んでいた

昨日の3時半頃、雨が降っていて遠景は霞んでいた





5時54分、曇っているのでまだ暗い




中庭の地面は昨夜の雨でまだ濡れていた




文蔵の彼岸花の栽培品種、毎年咲く





六辻水辺公園遊歩道の黄葉紅葉



辻のコウテイダリアもまだ濡れて咲いていた



何の実だろうか





六辻交差点付近、外環下のトチの木、上半分が黄葉
いつもトチの木とホウの木の区別がつかないのである。一枚の葉に切れ込みがあって葉が手指状に分かれているのと、数枚の葉が放射状に並んで手指状になっているのとがあって、これが両種の差異なのだが、何時もどっちがどっちだか分からなくなる。

橡の実のつぶて颪や豊前坊 千代女



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