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2011年11月24日木曜日

Susumuの日記 2011年 -305-

11月24日 木曜日 快晴

六辻・三学院コース、よく晴れている割には寒くない。

今朝のテレビや新聞で立川談志師匠の死が報じられている。

3年ほど前だったと思う。銀座6丁目の交詢社がある通りを外堀通りから中央通りに向かっていたときである。交詢社の手前辺りの通りの左側に大正か昭和初期ではないかと思われるスタイルの古いビルが目についた。「瀧山ビルヂング 中央区銀座西6丁目五番地」と書いてあった。

古いビルに目のない僕は遠慮しながらもさっそく中に入ってみた。中は古めかしい階段が暗い上階に続いている。すると、その階段の上から人が降りてきた。額にタオルを巻いてジャンバーをきた初老の男である。僕が住民かなんかと思ったのか「ちょっと中を見せてもらいました」という。僕が「いえ僕も中を見たくて入ったんです」というと、「毎日前を通ってるのにこんなビルがあるなんて気が付かなかったよね」とかいいながら、そそくさと出ていった。

言葉遣い、アクセント、風体のどれをとっても、下町の東京生まれ、東京育ちと思われたが、どこかで見た顔だった。連れが「立川なんとかういう落語家じゃないですか」というので「そうだ、談志師匠だと気がついた。外に出てみると、師匠はそそくさと銀座通りと右に折れていった。

僕にとっては出会って言葉を交わしたのが最初でかつ最後になった人がこれで三人目である。最初はNHKの和田信賢アナウンサーだった。当時、高校1年か2年だった僕は、あることから出版社の北隆館主催の集まりに出て、その後、北隆館の招待で銀座の三笠会館で夕食をごちそうなった。その席のすぐそばに昼間の会の司会をしてくださった和田さんがおいでで、「後輩の藤倉修一君が司会している二重の扉という新番組があるので、ぜひ公開録音を見に行って応援してやってください」とおっしゃって名刺に紹介を書いてくださった。残念ながら見には行けなかったし、その名刺もどうしたか記憶にない。その後、和田さんはパリで亡くなられ、三笠会館でお話ししてくださったのが最初で最後になった。

二人目の人は友人の小石川高校時代の同級生で、山手線の新宿と高田馬場の間で出会って友人から車内で紹介された。当時早稲田大学の学生だったその人は、そのしばらく後にある事故で亡くなられたと新聞で報じられた。

3人目が立川談志師匠である。あの飄々とした後ろ姿が印象に残っている。僕は落語が好きなので、特に惜しい人を亡くしたという感が深い。ご冥福を祈りたい。



6時5分の東の空、快晴、もうじき日が登りそうだ




蕨高校通り、道標が立っていて、WARABI KOKO DORI と書いてある。これでは土地勘がなければ「蕨此処鳥」と思ってしまいそうだ。日本語の母音の長音についてはしっかりしたローマ字表記をきめるべきである。さもないと、ローマ字表記がもっと普及していったときに、いろいろな誤解が起こってしまうことは間違いない。




三学院の手洗いには金色の玄武が飾ってある。このお寺は金亀山という山号なので、それにちなんだのであろう。この手洗には水琴窟が仕込んであるのだが、せわしない音で感心できる出来ではない。




三学院には露座の巨大な十一面観音立像がある。その頭部、さっきまでオナガがとまっていた。




中庭のシクラメン




帰宅した時の東の方向、快晴なのに風が弱いので霞んでしまっている




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