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2011年10月21日金曜日

Susumuの日記 2011年 -271-

10月21日 金曜日 曇り

今日は小谷場公園コース、日記の文章の部分を増やそうかと。


朝のコインランドリー、


コイン・ランドリーは独り者の男性のためのものかと思っていたら、けっこうオバサンなども使っているのを見かける。僕の子供の頃には、長屋の裏には共同の井戸があって、そこに長屋のオバサンたちが洗い物をしていたものだった。

子供の頃に住んでいた中延の家の裏口にも井戸があって、野菜などは屋内の水道でなく、井戸で洗っていたと思う。もちろん洗濯も。

そう、小学校にはいった最初の日のことだった。親友の広ちゃんと「ただいまー」と元気よく帰ってきたら井戸端に母や広ちゃんのお母さんがいたと記憶している。
母たち:「今日は何勉強してきたの?」
僕と広ちゃん:声をそろえて「むすんでひらいて」
母たち:「上手に出来た?」
広ちゃん:無邪気に「僕、出来た。 進ちゃんできなかったよ」
僕:無言



ヤンキー座り


この人は朝早くから外でしゃがんで携帯電話を使っていた。 

よくこうやって座っている若い人を見かける。かっては、繁華街の裏通りなどでおっかない風体のオニイサンたちがこうやって座っているのを見かけたし、競輪場のあたりなどでもこうやって座っている人たちがいた。

僕はこの座りかたが苦手である。今もやってみたが難しい。踵を上げれば楽になるが、一寸不安定。踵をつけると苦しい。僕には踵を上げて、つま先で座るほうが楽だ。

この座り方を「体育座り」というのかと思っていた。しかし、いまWikipediaで調べたら「ヤンキー座り」あるいは「うんこ座り」というと書いてあった。ヤンキーとは不良のことだそうだ。そういえば、昔はそういっていた気がする。
「体育座り」とは、お尻を地面につけて座るのをいうとあった。

しゃがんでつま先で体を支えて座るのは「蹲踞、ソンキョ」というのだそうで、土俵上の力士や野外の武士などがする座り方。

話は跳ぶが、このごろ高校生などが電車の中や廊下などで、体育すわりをしているのを見かける。老人は顔をしかめて行儀が悪いという。しかし、僕が若い頃は、都内でも舗装された部分が少なくあちこちで土がむき出しになっていた。そこで車内でも屋内でも、床が土ホコリでよごれて汚かった。そこで、体育座りなどはお尻が汚れるのでできなかった。今は電車や建物の床も奇麗なので彼らは平気で体育すわりをするのだろう。生活環境の違いが行動を変えたのだと思う。



ホトトギス


この名前も検索して調べたら「この名前は花びらにある紫色の斑紋がホトトギス(小鳥)の胸の斑紋と似ていることから付けられたとされている」とあった。

昔、我々が尊敬する小林英司先生が長期間外遊されるというので、友人数人で送別会を開いた。中野の「ほととぎす」というお料理屋さんだった。確か内藤豊君のお世話だったと思う。ほかに故安増郁夫君、故河野晴也君がいたと思う。そのときお店の中居さんが、「ほととぎす」の「ホト」とは女性の性器のことを言う古語で、この店名の本当の意味は「ホトにキスする」というのだと、卑猥な冗談をいっていたのを思い出した。

せっかく奇麗な花なのに、変なことをいってごめんなさい。安増、河野両君は故人となり、小林先生は病床にあり、内藤君もこのところ音信がない。



夏蜜柑


中学生、高校生の頃の友人に高山一成君という人がいた。後に、医師となり北九州市の小倉の病院で活躍されたと聞いている。彼とは高校1年生頃までは仲がよかった。当時の八幡市のたしか槻田とかいった郊外の住宅地にある大きな屋敷に住んでいた。
彼の家の庭には大きな夏蜜柑の樹が数本あって、遊びに行くとよくお土産に実を取ってもたせてくださった。彼には可愛い妹さんが二人いて、その1人に、僕の友人の安仲君が夢中になり、僕を誘っては高山君の家に遊びに行きたがって困った記憶がある。

僕にマージャンを教えてくれたのも高山君で、よく彼の家でジャン卓を囲んで夢中になり、それが学校にばれて、先生に注意されたことがあった。

ラグビーをやっていた次男が高校生のときに、試験の直前なのに雀荘で他の部員とマージャンをしていたのがばれて、親の僕が学校に呼び出された。息子に「うちのお父さんは中学生のときからやってた」って、学校の先生にいえといったら、家内が慌てて止めた。夏蜜柑を見ると高山君を思い出す。


貝殻坂の貝殻




小谷場にある坂を下っていたら、そばのアパートに「貝殻坂アパート」と書いてあった。そこで、坂の途中の地面を見ると貝殻が土に混じっていた。坂下の駐車場の地面にもかなりの貝殻が混じっている。国土地理院の地図を調べたら、ここの場所に貝塚と書いてあった。

ということは、このあたりまで古江戸湾が広がっていたということである。段々と開発が進んで、坂の途中の貝殻はなくなってしまい、坂下の駐車場の地面の貝殻も数が減ってしまった。




お施餓鬼の卒塔婆


小谷場の阿弥陀堂にはお地蔵様やお不動様などがある。この写真は無縁仏を集めたところのようだ。「大施餓鬼者為有縁無縁一切・・・」と書いた卒塔婆が置いてある。

母が在世のころ、毎年、わが家のお寺の世田谷の称応院のお施餓鬼に母を連れて行くのが恒例になっていた。かってはこのお寺に縁のあるお蕎麦が振舞われたのだが、ある年から普通のものに変わってしまった。昔からの蕎麦屋のご主人が亡くなって店じまいをしてしまったのだと聞いた。    

ちょっと衒学的になるが、こういった卒塔婆は菩提を弔うために塔を建てることの代わりなのだそうだ。卒塔婆という言葉の源はサンスクリット語の「ストゥーパ」なのだそうで、英語の Tower も同じ語源だそうである。






アケビの実、西中学の前にあった。


アケビとよく似たのにムベがある。花の色や形が違うのだが、どっちがどっちだったか、いつも分からなくなる。毎回、検索して確かめているのが情けない。また、メベはアケビのように紫色にはならないと何かに書いてあったように思う。左端のは紫になって、実が割れてきているのでアケビなんだろう。

また衒学的な一言、日本の古語の枕詞の「むべ」は山にかかる。「・・・むべ山風をあらしというらん」がその例である。ムベは山に生えているからだろう。アケビは何故つかわれなかったのだおるか?


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