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2011年12月31日土曜日

Susumu の日記 2011年 -341-

12月31日 土曜日 快晴

 生まれてこの方、ついに79回目の大晦日を迎えることができた。

 普通のサラリーマンの三男として生まれて8年間と少し、当時の東京の郊外の住宅地で、幼時と小学校のほぼ前半を平凡に、しかし恵まれて、平和に過ごした。
 その後、父親の転勤で今の北九州市にあたる当時の小倉市に移るとすぐに戦争が始まり、戦時下の風潮と、当時の東京と九州との間の文化の違いに苦しめられて、かなり辛かった小学生後半の時代を送った。
 それが国民学校高等科入学が転機となって、過去が払拭され伸び伸びとした学校生活がはじまった。旧制中学入学後数ヶ月で敗戦、新たな民主主義の時代が始まり、戦後のほぼ6年間の中学高校時代は、素晴しい先生や友人に恵まれ毎日が充実して楽しく過ごすことが出来た。その間、3ヶ月ばかりの苫小牧市で過ごした期間も印象深いものだった。

ほぼ10年に及んだ社会的にも、個人的にも波乱万丈だった九州での生活が終わり、生まれ故郷の東京に戻って大学生となった。卒業と同時に、大学での研究生活が始まり、ニューヨークでの1年半を含んだ9年間の日々をひたすら研究ですごしていたように思う。さらにその後の大学教師としての38年間の教育と研究の生活は、間に紛争の70年代もあって平坦ではなかったが、ほぼ毎日が快い緊張に満ちた充実したものだった。さらに本職の大学以外にも、小学校、中学校、高等学校、専門学校、それに国公私立の他大学の学部や大学院など、期間の長短こそあれ、色々なレベルでの教育に携われたことは人間として得るところが多かった。この間、なによりも幸福だったのは素晴しい大勢の学生・生徒たちと共に学べたことだった。この経験は僕の一生の宝だと思う。

この間、アジアと大洋州の9カ国、ユーロッパの13カ国、南北アメリカ大陸の3カ国、その他の3カ国など、いつの間にか合計27もの国を、研究や会議のために訪れていた。国内でもいつのまにか訪れたことのない県がなくなっていた。こういった国外や国内各地で経験も、僕の人生を豊かなものにしてくれた。

大学での長い生活の間に、大学の周囲の商店や、大学での仕事に関係する会社の方々と接する機会も多かった。こういった方々の中にも何人もの素晴しい人たちがいて、それらの人たちと接するのが楽しかった。そしてわかったことは、人間の立派さというのは、学歴でもないし、社会的地位でもない、その人の固有のものであるということだった。これらの人たちは素晴しい感性と、知性と、品性を持っておいでなのである。正直にいわせていただくと、大学教師の中にでも、こうれらの方々に比べてはるかに劣る人も少なからずいるのである。戦後の日本の発展や現在の日本の活力は、普通の人々の中にこういう素晴しい人々が多く存在することよるものだと思っている。

定年退職後の10年間はあっという間に過ぎてしまった。この間、新たに得た何よりも尊いものは、地域の友人たちである。みなさん、それぞれの職域での豊富な経験を積まれた方々で、僕の退職後の生活を楽しいものにしてくださっている。


今日はやや風はあったが、比較的寒さも弱かったので走るのが楽だった。ただ、走るというのは不思議なもので、体が軽くすごく快調に走れる日と、何となく体が重くて元気が出ない日とがある。これが特に体調と関係があるようでもない。まったく予期不可能なのである。走ってみて始めたわかる。そして、今朝はこの点ではあまり快調ではなく、ことに前半はどこか苦しかった。
今朝は線路沿いから六辻水辺公園に入った。



5時44分、完全に真っ暗でどう見ても夜景




やや明るくなってきた高圧線鉄塔、水辺公園遊歩道で




辻の蝋梅、今年はまだ緑の葉が残っている




まだ薄暗い辻小橋付近




辻の梅はまだ花芽が固い




外環下の山茶花の落花はみごと




文蔵のマンションのこ奇麗な花壇




蕨高校の裏の家の柿、皺がよって、鳥の羽がついている




中庭の水仙、咲くのを依然として拒否している




微かに見える筑波山、思ったよりも東よりに見えるので、以前、地図で位置を確かめた




今日の写真のスライドショーはここをクリックすると見られます









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